飴玉

Open App

最近、絵を描くことを続けている。まだ数ヶ月と短いが、私にしては長く続けている方だ。始めたての頃は確かに好きでやっていた。この感情に間違いはなかったと断言しよう。

断言できていた。

近頃、この感情に間違いがあったのではないかと悩んでいる自分がいる。私が好きだったのは、「絵」ではなくその先にあった「賞賛」ではないだろうかと。私は絵が好きだから自分は絵を描いていると思い続けていた。しかし、SNSに絵を投稿する自分や、いいねの数に心を動かされる自分を顧みる度、自分に対してどうも疑ってしまう自分がいる。

私は本当に、絵が好きなんだろうか。私が絵を描き続けているのは、「絵」が理由ではなく、「賞賛」が理由なのだろうか。

世の中には、賞賛されたくて絵を描く人がいる。無論、賞賛されたくて絵を描くことも間違いではないのかもしれない。人の心理に詳しい人はコレは危険だ、と言っているのをまま聞くが、だからと言って絵を描く行為を止めることはできないと思う。

「賞賛」に縋り生きる人々が求めるものを得る唯一の手段なのだから、彼らはその手段をそう簡単には捨てまい。

そしてもうひとつ、絵が好きだから絵を描く人がいる。ただ絵が好きで、好きなものを皆に見せたくて、それだけのただ純粋で、綺麗なもの。子供のように純粋無垢な欲求のまま絵を描く人。そう、子供のように。

私は信じていた。私は後者で、前者のようにただ人に褒められたいだけの虚しい人ではないと。私はただ絵が好きだから。「絵」が好きだから、「賞賛」は二の次にあると。

しかし、子供の頃より少しだけ大人になった今、「賞賛」される喜びを知ってしまった。絵を描くことでは得られなかった、他人から与えられる喜びを。そして、その喜びの儚さと、危険性も。だから、自分は違うと必死に言い聞かせて描き続けている。

時折、優しい人は「信じて描き続ければ大丈夫」と言ってくれる。その時に、ある感情に襲われる。

絵が好きな彼らはきっとこの感情を知らないのかもしれない。それか、忘れたのかもしれない。私は忘れたんだと思う。

私は、とっくに信じている。しかし、その先でこの現状なのである。貰えるいいねは2桁を超えず、貰えるいいねもお情けにしか思えない。誰も私の絵を見てくれない。私は、私が描いた絵は、好きの正反対にある無関心に常に晒されている。

頑張っているんだ。その上で、これ以上何を頑張ればいいんだ。ただ我武者羅に頑張って、ゴールの先に何があるかも知らず、ゴールがあるのかも分からず、取り敢えず筆を握っているんだ。

どれほど頑張っても、上には上がいるのが世の常だ。その人たちは「絵」か「賞賛」か、何が目的か知らないが、今も絵を描いて、今も上手くなっているんだろう。どれだけ真似をしても追い付けない間を常に感じている。

この感情を絵で表現してみようか。表現したところで誰も見てはくれない。気に留めない。もっと描いて、もっと上手くならなければならない。


何故


こう考えた先に辿り着く疑問に、胸を貫かれる。何故私は筆を握るのか。そこまでして「賞賛」が欲しいのか、そこまで「絵」が好きなのか。

分からない。今の私にはまだ分からない。答えが分かるかすら分からない。きっと片方だけでは無いんだろう。片方だけなら既に分かっていただろう。

私か求めるものも、この感情の名前も、複雑さも、分かるかもしれない。今は可能性に掛けることにした。

きっと、その可能性は低い。検索すれば分かってしまうような単純なものではないだろう。そうだとすれば、私はここまで「絵を描く」ことに執着しないだろうから。

私は筆を握っている。



「!マークじゃ足りない感情」

8/15/2025, 1:36:47 PM