【不条理】エヨア
「エヨアを探してるんです」
と暖かな日差しの朝、まだ就学前であろう幼い少年は、公園でそれだけ言った。すると新聞を抱えた紳士は髭をちょっといじってから、「スーパーに行くといいよ」とだけ言い残して立ち去った。
少年はそれに従い、スーパーに向かう。ごちゃごちゃと物が置かれたスーパーは開店したばかりだが、多くの客がカゴを持ってあれこれと頭の中と目の前の物と照らし合わせては棚に戻したりカゴに入れたりしている。
「エヨアを探してるんです」
と少年は帽子をとって言った。すると近くにいた年配の身なりのいい女性が「まぁ」と声を上げた。
「こんな子供に。エヨアならまず公園にいらっしゃいな」
「公園から来たんです」
「まず公園よ、公園、エヨアなら」
婦人はそういって少年をスーパーから追い出した。少年は少しスーパーの方を見ていたが、すぐにまた公園の方へ戻っていく。手を擦り合わせながら、ちらちらとあちこちを気にして歩く。そうしてまた公園に着くと、少年は誰に共なくこう言った。
「エヨアを探しているんです」
「ちょっと疲れた」
と、榊が言い出したので公園のベンチに座る。榊は大学の時の演劇サークルの友人だ。自分と榊は結局劇芸の道に進むことはなく、趣味としての観劇に時々同行する仲間として続いている。少し汗を拭って、ついでにメガネも拭うのを見ながら、「コーヒー買ってきていい?」と声をかけると、小さく頷いたので自販機に向かう。
舞台はいわゆる不条理劇というものだ。『ゴドーを待ちながら』のような噛み合わない会話が続いていく。繰り返し語られる「エヨア」がなんなのか、我々には結局分からない。ただ少年……舞台上で少年とされる若い俳優が、あちこちを歩き回っては「エヨアを探している」と言い続ける。出会う人々は誰も彼も勝手に答える。スーパーに、公園に、学校に、図書館に、市庁舎に、船着場に、地下鉄の駅に、テレビ局に、エヨアがある、あるいはいる、とそう答えるのだ。しかし少年は誰かに積極的に話しかけるわけでもなく、ただいきなり「エヨアを探しているんです」と声を上げるだけだ。
夜間なのでカフェインを避ける。適当に、無糖の炭酸水のペットボトルを二本買った。
榊はわかっていたように百円と十円玉をいくつか交換に渡してきて、ペットボトルを受け取る。
「最後にさ、少年が「なんだ、誰もエヨアを知らないくせに」と言いながら観客の方を見渡すの、結構嫌だよな〜」
「あ〜、ちょっとね、身につまされるっつーかね」
サラリーマンなんてやってるとそんなことばっかりだ。会議資料に出てきたアレはどこのだっけ、コレのことなんか知らないか、そんな質問に「いやぁ、だれそれなら知ってるんじゃないですかね」とのらりくらり。時々そんなことも知らないのか、とか、全然違うじゃないか、と大きな穴にハマることもある。
「最近中途採用できたオバチャンがさ」
と榊はペットボトルのキャップを手の中で遊んだ。
「凄いんだよね、ごめんなさい、それはなんですか? どういうものですか? それじゃあこの人じゃないですか、それは私の管轄じゃないようです、って。問題の対象を何か把握して切り分けるスピードが速いってか」
「うわ、合理の鬼。そうあるべきだと思ってもなかなかできねーよなぁ……」
なかなかできないのはなぜなのか。それは無駄なプライドのせいだ。他人からみえもしないレッテルに怯えた結果がこれだ。きっとエヨアのことを答えた人々も、そうだったに違いないと思う。主観でしかないが、そう考えると少年の叫びはもっともなのだ。
「オバチャン見習いて〜」
そうぼやきながら、炭酸水を飲み下す。泡は確かにそこにあるくせに、即座に消える物だ。軽やかな痛みのような刺激とシュワシュワという音だけを残して。
3/19/2026, 2:16:58 AM