「もたつくお天気ですね」
薄墨の空はもうすぐにでも濡れ始めそうだった。強い風はないけれど、ゆっくりと湿った空気が運ばれて、い草のにおいがまざってゆく。
きみが好む香なのに。
「もう雨戸も閉めておく? 風が急に出てきたら大変だし」
「いいえ。もう少しだけ」
「そう?」
分厚い木版に縁起のいい図柄の欄間。つやっと光沢を帯びた木肌は、外の空と呼応するような彫刻が施されている。その下に陣取るきみはわざわざ座椅子を持ってきて、じっと外を眺めていた。
空の上層に墨を流したような雲が幾重にも折り重なって、たまに見える空との境い目が曖昧になる。雲の襞が風もなく、ただ重さだけで垂れてくるようで、心なしか急かされる。
ぼくも、いそいそと茶器をお盆にのせて、きみの近くに座った。
「おや」
「座ってもいい?」
「もちろん。あなたのお茶が一等ですもの」
「きみほどおいしくはできないけれど」
「ふふ、うれしい」
庭の風景も相まって、陽光を求める花のような笑みだった。
その向こう側で、雲が、ほんの隙間から、真っ白く脈打った気がした。
「どうしました?」
喉が渇く。はく、と喉が上下して、唇が離れて息が漏れる。だって、空が――――ゴロゴロゴロ……、淡々と鳴りはじめたから。
ぼくの視線は自然と下を向いてしまう。
「おや、かみなり。まだ遠いですね」
「……そ、そう、だね」
「苦手です?」
「…まぁ、…うん。ちょっとね、ちょっとだけ。ここから官舎までは回廊があるし、大丈夫」
「このお天気だと夜半まで続きそうですね、かみなり」
「えッ」
くすくすと笑う、きみの袖口。涼しげな色に、銀糸の筋がいくつか走っていた。かみなりは、きっとぼくなんかよりもうんときみに近い。ぼくには誰かの声みたいに聞こえるときがある。
だから、…目を逸らして耳も塞ぎたくなる。
そう知ったら、きみはどんな顔をするだろうか。
こんな罰当たりなことを考えていたからか、きみが座椅子から立ち上がってしまった。
文机の引き出しをひとつ開けて、指先で何かを探すように木の中を撫でてゆく。
「嫉妬しいで困りますねえ」
「え」
ひとり言のようなきみの言葉。
やがて、ぷらんと宙に垂れる風鈴が取り出された。透明な器に淡い青が滲んで、下に伸びた短冊は濃紺の墨で文字のような模様が描かれている。
短冊は揺れているのに、音がしない。
「あなたに八つ当たりなんて、わるいお方です」
欄間の下まで戻ってきたきみは、片手で袖を留めながら、まだ空の裏側で爪を立てているそこに、風鈴の器を重ねた。
雲が閉じ込められて、奥で鳴っていた音がすうっと器の中に吸い込まれてゆく。
ふうー…と、そこにきみが息を吹き込んだ。
短冊が、ゆらり、ゆらり、ゆら、揺れて。
――――ちりん、ちり、ちりん、ちりん。
風は凪いでいるのに音は止まない。
ちりん、ちりん、少し止んでまた、ちりん、ちりん。
その音のまま、風鈴は季節釘に引っかけられる。
つられるように外の雲を見れば、相変わらず濃くいくつも重なっていたが、その隙間が光ることも音を飛ばすこともなくなっていた。
いま、きみが?
音を、光を、囲ってしまったの?
ぼくの近く、座椅子に腰を戻したきみは、ちりんちりんと音を飛ばす風鈴に耳を傾けたまま。ぼくの淹れたお茶を口許に運ぶ。
「そんなに言わなくても、わたくし、ここにいますのにね」
あの空から来た音がきみの近くで鳴っている。
ああどうしよう、ぼく、やっぱり、かみなりは好きじゃないかも。
#遠雷
8/24/2025, 8:56:44 AM