射馬弓午

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 私が住むマンションの近くに公園がある。どこにでもあるような、なんの変哲もないつまらない公園だ。つまらなさすぎて、日曜日の昼間ですら子供の声がまばらなほど。
 このマンションに移り住んではや三年ほど、勤務時間の都合で真夜中の長さを体感するようになって三ヶ月ほどが経ち。行き過ぎたほど閑静な住宅街に飽きた私が、真夜中に散歩をするようになっておよそ一週間。
「……あ、今日も来たんだ~」
「今日もいるんですね、あなた」
 彼女のことは何も知らない。名前はもちろん仕事だとか住んでる場所だとか、そもそも何が楽しくて真夜中の公園で優雅に安っぽいワインを呷っているのかだとか……そういった理由や背景を何も知らない、聞いてない。七度のあった会話のうち、お互いの素性について話したことがただの一度もない。私たちは毎回決まって錆が目立つ街灯の脇にある、これまた緑青が浮いた古臭いベンチの両端に座って、彼女はただちびちびとワインを飲み、私は何をするでもなくぼーっと星を眺めたりするだけ。振り返ってみても奇妙な関係だ。やけに整った横顔に、今日も私は何気なく声をかける。
「それ、美味しいんですか?」
「んぁ……なに、飲みたいの?」
「いや飲みたいとかじゃなくて」
「あは。やだよ、あげないよ。こんなに美味しくないもの」
「じゃあ美味しくなくないお酒、買ってきてくださいよ。せっかくだし一緒に飲みましょうよ」
「あはは、考えとく」
 考えると口では言いつつも、たぶん頭の片隅ですら思考してないんだろう。だって今ので四回目のお誘いだから。全くもって意味のない会話だ、ChatGPTに話しかけた方がよほど建設的な時間を過ごせるだろう。でもこの『無駄』が心地よくて、出会ってから一週間、ずっとこんな調子で『無駄』を嗜んでいる。
「ねー、聞いてくれる?」
 だから突然、にへらと笑った酔っぱらい女から話しかけられて驚いた。
「え、あ、はい」
 その時分になって初めて真正面から彼女の顔をまじまじと見た気がする。やっぱり美人だ、飲んでないのに鼓動が早い、心臓がきゅっとなって苦しい。同性にこんな感情を抱いたことがなくて困惑してる、なんだろうこの気持ちは。
「真面目な話だよ、ちゃんと聞いてー」
 肩に腕を回されて、酒臭い呼気を浴びせられて、それでも何だか悪い気はしなかった。ろくに何も知らない間柄なのに、するりと懐に潜り込まれたのに嫌じゃなかった。
「あたしさ、死にたかったんだ。一週間前は」
「へ、へぇ~……ぇ?」
 間抜けな私の顔が面白かったのか、彼女はけらけらと腹を抱えて笑い始めた。
「……ちょっ、なんだ冗談ですか。やめてください、つまらないですよそういうの」
「あっはは……いやマジマジ、ほんとに死にたかったんよ。そういう時、ない?」
 無い。断言できる。生まれてこの方、考えたことすら無い。幸せなんだろうな、私は。無言で見つめるしかない私に、涙を拭いながら彼女が私の肩に頬を寄せた。さっきから何なんだろうこの遠慮のなさは、どきどきしてる私の気持ちも考えてほしい。いや、私だって彼女の『死にたい気分』なんて察することすらできなかったんだから、まあいいか。
「大した理由なんて無いんだよ? ちょっと上手くいかないことが立て続いて、ナーバスになっちゃってさ。そこに何も考えてなさそーな野良猫みたいな子に出会ってさ。ちょっと甘えたくなった」
 もしかして、今さらっと私のことを野良猫呼ばわりした? 多少の引っ掛かりを覚えてツッコミを入れたくなったが、それをしたら何だか負けな気がして虚空へと視線を反らした。
「あたしに興味なんてないクセに話しかけてくるし、その割には毎日付かず離れずの距離を保つし。そこんとこどーなの、野良猫さん。ホントは好奇心旺盛だったりして──」
「んなわけないです、もう放してください酒臭いから」
 図星を突かれた胸が痛くて、思わずカビの生えたツンデレみたいな態度を取ってしまった。あれって二次元だけのフィクションじゃなかったんだ、実感しちゃったよ。
「あはは、わかりやす~」
 当然のように見透かされている。もう顔が熱くて熱くてまともに前すら見れない。このまま俯いた姿勢で帰ろうかな、というか今すぐ逃げ出したい。私は挨拶もそぞろにベンチから立ち上がって、自宅へと歩き出した。早足で十歩ほど歩いたあたりで、何の気なしに後ろを振り返る。
「野良猫さん、また明日ね~」
 彼女が手を振ってくれた。うれしい。
「ん……」
 軽く手を振り返すが、途端に気恥ずかしさがこみ上げてそそくさと私は公園を後にした。
 帰り道で今夜の出来事を思い返すと、自然と笑みが浮かぶのが不思議で、だけどとても気分が良かった。にへらと笑った酔っぱらいの安らいだ笑顔が明日も明後日も、この先も見られるなら……つまらない日々も悪くないかな。

 これが私の人生を変えた真夜中の出会い、その始まりの一週間でした。

1/27/2026, 6:57:05 AM