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胸が高鳴る


午前八時過ぎ、定刻にきちんとやって来た電車に乗り込む。いつも通り少し奥の方まで歩いて、乗車口に程近い位置に立つ。
いつもと変わらない景色、顔馴染みの乗客たち。そんな日常に色がついたのは、去年の夏だった。
暑苦しい日差しが容赦なく降り注ぐ中、幾分か涼しい電車の中はまるで天国だった。流れる汗を拭いながら、視線を少しだけ斜めに向けたそこは、いつもは誰も立っていないのに、その日は珍しく男の子が立っていた。
少し視線を上げるくらいには高い背に、どこかの校章が入った制服、前髪が目にかかりそうになっていて見えづらいが、中々の美形だった。
第一印象は、綺麗な子、だった。じっと見ていたからか、彼と目が合ってしまって慌てて逸らす。少ししてもう一度そちらをちらりと見れば、彼はただただ流れる景色を眺めていた。
それが出会いで、それからというものの今日はいるのか、とその位置を見るのが癖になってしまった。平日に毎日見れるというわけではなく、週に一、二度程のときもあれば、一ヶ月も見れないときもあった。
だが、ここ数ヶ月はほぼ毎日見れている。私の定位置が決まっているように、彼も必ずそこに立っていた。
少しだけ視線をそちらに向けて、盗み見る。あまり褒められるような行為ではないが、仕方ないと正当化したくなる。目の保養なのだ、仕方ない。
バレないようにしながら、その顔を堪能し、今日も一日頑張るぞ、と気合いを入れる。
目的地に着く前にもう一度拝んでおこうとちらりとそちらを向けば、彼と目があった。少しだけ微笑んだようなその笑みが向けられて、思わず固まってしまう。
予想もしていなかったその笑みに頭を混乱させつつ、笑うと幼くなるんだぁ、なんて現実逃避した。
もしかして、ずっと見てたのがバレたか。冷や汗と動悸が止まらない中、降りる駅に到着してしまう。降りるには彼の前を通るしかないのだが、絶対ヤバイやつだと思われているので、足早に降りようと人の間を縫って移動する。
申し訳なさと恥ずかしさで体を小さくさせながら、彼の前を通りすぎる、はずだった。電車から降りようとしたそのとき、彼の手が私の右手に少しだけ当たった。
反射的に出たごめんなさいに、体は勝手に電車から降りていて、彼の方を振り向く。
駅員のアナウンスとドアが閉まる音が響き渡る中、彼は笑って小さく手を振った。
「また、あした」
そう動いた彼の口元を呆然と眺める。胸が高鳴るまで、あと―――。

3/19/2023, 2:04:35 PM