sairo

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「こちらでお待ちください」

促されて、椅子に座る。
室内は暗く、テーブルの上に置かれた小さなキャンドルの灯りだけでは、周囲の様子を窺う事は出来ない。

――今更気にする事でもない。

凪いだ心は酷く無気力で、ただぼんやりと揺れる炎を見つめていた。


「お待たせ致しました」

ことり、と置かれた白のマグカップ。
立ち上る湯気と共に漂う甘い匂いに惹かれるように、手を伸ばす。
暖かい。マグカップ越しに伝わるその熱を、暫し堪能する。
そっと持ち上げたマグカップに口を付ければ、優しい甘さに目を細めた。
変わらない、ココアの味。
幼い頃、寝付けない時に作ってもらっていた。自分だけの特別。
それを作ってくれたのが誰であったのか。今となってはもう、思い出す事は出来ないけれど。


「落ち着いたか」

かたり、と椅子引く音。
目の前に座る彼を見てまた一口、ココアを飲んだ。
ほぅ、と息を吐いて。小さく頷く。

「今度は何があった?」
「何も。いつもと変わらない。何でもない。大丈夫」

呟く声は、淡々として。

「あいつらか?」
「違う。私が悪い」

マグカップを持つ手に、少しだけ力が入る。
暖まったと思っていた気持ちは、やはり冷たいままだ。

「私が、皆の期待に応えられないから。弟達よりも劣っているから。だから褒めてもらえないのも、見てもらえない事も、全部私が悪い子だから仕方ない」

誤魔化すように、マグカップに口を付ける。
さっきまで甘かったはずのココアが、何故か少しだけ苦く感じた。
彼も、幻滅しただろうか。
お前さえいなければ、と彼も思っているのだろうか。

はぁ、と重苦しい溜息に、僅かに肩が跳ねる。

「変わらなかったか。分かっていた事だが」
「ごめんなさい」
「お前が謝る事ではない」

その言葉に、またごめんなさいを言いかけて。言葉ごと、ココアを飲み干した。
なくなってしまった、特別。終わってしまった、静かで暖かな時間。
帰らなければ、と顔を上げ、彼を見る。

「大丈夫。次はもっと上手にやるから。逃げ出さないように、もっと強くなるから」

口角を上げる。忘れかけた笑顔を、作ってみせた。
マグカップを置いて、立ち上がる。
彼は何も言わない。ただ静かにこちらを見ていた。

「帰る。今日もありがとう」

返る言葉はない。
怒らせてしまっただろうか。思わず目を伏せた。


「これ以上は、無理だ。止めるなよ」

低い呟き。感情を押し殺したような、声音。
はっとして顔を上げるのとほぼ同時。唯一の光源であったキャンドルの灯りが消えた。

「え?」

一瞬で何も見えなくなる。
マグカップも机も、彼も見えず、立ち尽くす。
ざわざわと、周りで複数の人の話し声がする。

――いつまで経っても成長しない、出来損ない。
――一族の恥だ。こんな凡庸では下の者に示しがつかない。
――視界に入るな。気分が滅入る

聞き覚えのある声。毎日のように聞いている言葉。
唇を噛みしめ、目を瞑る。
いつもの事。何でもない、些細な事だと、自分自身に言い聞かせる。
大丈夫だ。取り繕うのは慣れている。周りに悟られぬように、上手く隠せばいい。

――お前さえ、いなければ。

「ならば、その望みに応えてやろうではないか」

声が、止んだ。

「いらないというならば、我らがもらい受ける」

凜とした、彼の声。
その声に呼応するように、また複数の声がした。
先ほどの声とは違う、知らない声。
彼に賛同する声。歓声。笑い声。

否定する言葉は、ひとつもない。

「何で。どうして?」
「今のお前の言葉を聞く気はない。取り繕う事に慣れすぎて本心を紡げなくなった言葉は、意味を持たないからな」

ふわり、と浮遊感。
触れた場所から感じる暖かさと匂いは、とても懐かしい気がする。
思わずその温もりに縋り付く。背を撫でる手が優しくて、怖かった。

「やめて。帰る。帰らなきゃ。だって、私。私は」

これ以上は、駄目だ。
閉じ込めたものが溢れてしまう。隠せなくなってしまう。
そうは思うのに、縋る手が離れない。撫でる手に、もっとと願ってしまう。

帰りたくない、と。
泣きわめいてしまいそうだ。


「俺の作ったココアはおいしかっただろう?昔からずっと変わらず、好きだろう?」
「……好き。大好き」
「お前を愛そうとしない現世の一族と、お前を愛している俺の側と…どっちが暖かいだろうな?」

強く目を瞑る。
間に合わず零れてしまった涙を慌てて拭うが、さらに抱き寄せられて、止められなくなってしまう。

「泣け。我慢をするな」

優しい言葉に、これ以上抑える事は出来なかった。


「なん、っで。ずるい。ひどい」
「仕方がないだろう。あいつらがこれほどとは思わなかったんだ」
「わたし、だって、ずっと。約束したっ、のに!」

約束の言葉に、彼の相づちが止まる。
ああ、と苦い声が漏れて、ごめん、と小さな声に謝られた。

「あれは忘れろ。無しだ、無し。それに無理だろう。お前は笑えていないのだから」
「でも」
「駄目だ。もう此方側に隠すと決めたからな。もう花嫁姿とかどうでもいい。どうしてもって言うなら、俺が此方で探してやるから」

くすくす。からから。
笑う声がする。
ざわざわ。
声が波のように広がって。

「笑うな。お前らも同じ気持ちだろうが」

拗ねたように彼は呟き。
いくつもの肯定する言葉と共に、辺りが明るくなった。

知らない場所。広い畳敷きの部屋。
さっきまで座っていたはずの椅子やテーブルはどこにもない。

「さて、挨拶を済ませてしまうか。お前の部屋は用意してあるから、終わったら案内しよう」

下ろされて、促されるままに振り返る。
続き間に座る、たくさんの知らない大人達が涙越しに見えて、息を呑んだ。

「え?お兄ちゃん?」
「これからお前の一族となる奴らだ。仲良く…はしなくてもいいが、怖がるな」

ざわざわ。くすくす。
戸惑う声や、笑う声が響く。
優しい視線だけが此方を見ている。

「結局はお前も連れてくる事になったな。これなら下手に残すべきではなかったか」
「お兄ちゃん」
「此処では隠すな。取り繕う必要はない。笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣け。それが此処での約束だ」

頭を撫でられ一方的にされた新しい約束に、困惑しながら涙を拭う。
はっきりと見えた彼らの顔は涙越しよりも優しく見えて、少し落ち着かない。

それでも。
前を見る。妖として在ると決めた兄に、恥じる事がないように。
昔見たテレビの記憶を頼りに、膝をつく。

「不束者ですが、これからよろしくお願い致します」

三つ指をついて、頭を下げた。



20241212 『何でもないフリ』

12/13/2024, 3:28:05 AM