【勿忘草(わすれなぐさ)】
川縁に降りると、丈の低い草に混ざって、勿忘草が咲いていた。他に花を付ける草はなく、青く可憐な花弁はよく目立った。
「あの絵と同じだ」
思わず摘もうとして、すぐに手を引っ込めた。――星系ユニオン律第三二〇七条、未開拓星の生命体をもとの位置から移動させたり持ち帰ったりしてはならない。
「未開拓星、か」
星系ユニオンに未開拓星として登録されているこの地球は、我が一族にとっては故郷とも呼べる星だ。かつては陸地の大部分が開拓され、百億もの地球人が住んでいた。しかし、巨大隕石の衝突により、人間の居住に相応しい星ではなくなってしまった。生き残った地球人は星系ユニオンによって救出され、他の生命居住可能星に散らばった。一回り小さくなった地球は、星系ユニオンの再生プログラムにより、四千年かけてようやく、かつての面影を取り戻しつつある。私は居住環境調査員として、地球に派遣されたのだ。この足を再び地球に付けることは、我が一族の悲願だった。
とはいえ、私はケンタウリで生まれ、エンケラドゥスで育ったから、思い出の中に地球はない。私が知っている地球は、星系ユニオンの地球再生プログラムの中にある記録だけだ。
「花とて、なにも覚えていないだろう」
現地球換算で四千年もの時が経ったのだ。我が一族の祖が住んでいたころの地球など、花の記臆細胞からも抽出できないだろう。
「だが、星そのものは残っている」
川岸を見渡せば、先遣の無人機が送ってくれた立体映像そのものの光景が広がっている。それだけで、この星に奇妙な懐かしさを覚えてしまう。
「そして、勿忘草も残っている」
地球には数多の愛らしい植物があるが、この青く可憐な花を咲かせる草にだけ、私は特別な親しみを抱いていた。我が一族には、〈本〉という地球の希少遺物が代々伝わっている。その〈本〉に挟まれた〈栞〉に描かれていたのが、この花だった。花の名前も添えられていた。「forget me not」。一族の祖の言語では、勿忘草(わすれなぐさ)、と言う。
地球人迫害の歴史もあった中で、その〈本〉と〈栞〉は我が一族にひっそりと受け継がれ、私をこの星まで、そしてこの花のもとまで導くに至った。「私を忘れないで」と訴える青い小さな花、その本物を見てみたいというのが、私の密やかな悲願だったのだ。
「地球や花に忘れられたとしても、私たちが忘れずにいれば、繋がるものだな」
歴史の惨禍の中で〈本〉と〈栞〉が失われていれば、あるいは我が一族の誰かが失われていれば、私はこの星に降り立ってはいなかっただろう。星系人種の中で地球人の末裔として残っているのは、いまや我が一族だけだ。〈本〉と〈栞〉に記された言葉が我々を地球人の末裔として証明し続け、そして、一族の悲願に縛り続けてもいた。
「思えばこの花の言葉は、我が一族にかけられた呪いのようなものだったな」
地球人の血を継ぐことにこだわるあまり、我が一族は古いしきたりに囚われ、どんどん弱っていった。無茶なコールドスリープも繰り返した。そして最後に、私だけが生き残った。
私は川縁の勿忘草の横に腰をおろした。亜空間バッグを開き、こっそり持参していた〈本〉を取り出す。〈本〉を開くと、真っ先に〈栞〉が顔を出す。
誰がどんな思いでこの〈栞〉の絵を描き、〈本〉に挟んだのか。そんな事情は伝わっていない。〈本〉を〈読む〉という技術も、絶えている。しかしここに〈本〉があり、〈栞〉がある。地球があり、勿忘草が咲き、傍に最後の地球人が座っている。それだけで、なにもかもが充分なように思えた。
「あっ」
ふいに風が吹きつけ、〈栞〉を攫った。花弁のように薄い〈栞〉は宙を舞い、ひらひらと川の上に落ちた。川の流れは早く、〈栞〉はあっという間に下流へと消えてしまった。
「……星系ユニオン律第三二〇六条、未開拓星に持ち込み品を残留させてはならない」
この失態は、ケアレスレポートとして半永久的に星系ユニオンに残るだろう。私は〈本〉を亜空間バッグにしまいこむと、ため息とともに立ち上がった。失ったものの大きさの割には、心は軽く、地球に降り立ったときと同じぐらいに弾んでいた。
次の調査場所を求めて歩き出す。この星に新しい人間たちが住み着く日まで、もうすぐだ。
2/3/2024, 6:00:12 AM