20歳のころ、いい加減コーヒーぐらい飲めるようになりなさい、と呆れたように母に言われた。
飲めるわよと言い返すと、あなたが飲めるのはお砂糖がたっぷりはいった甘ーいものか、ミルクや何かで豆の味をごまかしたお子様向けのものでしょ。そんなのコーヒーじゃないわ。
混じり気なく苦いものを、当たり前に飲み干せるようになりなさい。もう大人になったんだから。分かる?
赤い唇で、映画のように母は言う。美しいひとだった。豊かな髪に膨らんだ胸部、くびれた腰、誰もが彼女を往年の映画女優のようだと言った。
わたしが幼いころに夫と離婚した彼女は女手ひとつで、わたしを育ててくれた。愛情深く育ててくれたと思う。毎晩、わたしの髪にヘアオイルを塗ると白いヘアブラシで丁寧に梳いてくれた。朝にはその日の服をいっしょに選び、日焼け止めとリップクリームを忘れないでと口うるさく告げては、汚い言葉を使うのはよしなさいと嗜められた。
おとなは、みんなわたしを褒めた。礼儀正しい子だとか食べ方が綺麗たとかいつもきちんと身なりを整えていて偉いわね、と。その度に、誇らしい気持ちになった。
思春期には窮屈でたまらなかったが、周囲の態度は母からわたしに対する愛情の大きさも感じさせた。どこかくすぐったくてあったかくて、時々おなかの中に冷たい風が吹いてくるそんな感じがした。いつかわたしが大学を出て社会人になっても、母とはずっと会えると思っていた。お母さん、歳をとったね。失礼ね、まだじゅうぶん若いわよ。また、そんなこと言って。もうおばあちゃんなんだから。
そんな会話がいつまでもできると。物理的な距離が出来てもなにも変わらないと、そう思っていた。
母が失踪したのは、卒業を控えた22歳のときだった。夏の終わり、夕立が降ったあとの晴れた夜空を見ながら、お母さん遅いなと考えていた。朝になっても帰ってこなかった。昼過ぎになってようやく母の勤めている会社から連絡あり、母がここ数日無断欠勤が続いたかと思うと、急に電話一本で会社を辞めると言ってきたらしい。どういうことかと聞かれたが、尋ねたいのはわたしのほうだった。
最初は気分転換で数日で帰ってくると思っていた。10日が過ぎるとパニック状態になって、親戚中に電話をかけまくった。そんなわたしを支えてくれたのは幼い頃に別れた父だった。親戚から事情を聞いてすぐに駆けつけてくれたのだ。父にはすでに別の家庭があったが、それでもわたしのそばにいて励ましてくれた。
父がいてくれたおかげで大学を卒業して就職することもできた。2歳違いの義理の妹とも義理の母とも仲良くなれた。いつでも泊まりにきてと言われたときは本当に嬉しかった。お互いの誕生日にはプレゼントを贈り合うし、年に5回は必ず会う。もうひとつの家族だった。
それでもわたしは母を探していた。
親戚に電話をしては連絡がなかったかと聞き、母の知り合いを訪ねては何か知らないかと訪ね、休日はほとんどそれに費やされた。友人関係は希薄になり、母との思い出を反芻しては眠りにつく。そんなことを繰り返していた秋のある日だった。
強い雨の降る夕方前、わたしは疲れ切って大通りから一本外れた静かな歩道を歩いていた。別の県に住む母の高校時代の友人を訪ねたが何の成果もなく空振りに終わった。電車を乗り継いで他県に行ったことも母の友人が優しいひとでお茶でも飲まないと誘ってくれたことも土砂降りの雨も冷えた体もなにもかもわたしを疲弊させた。わたしは本当に疲れ切っていた。
だからだろう、軽やかなドアベルの音に気づいてそちらを見たのは。そこには喫茶店があった。入り口から中年の男性がふたり傘をさして歩いていった。雨の中、会話をしながらとても楽しそうに。木製のドア、白いレースのカーテンに覆われた厚いガラス窓、オレンジ色の瓦屋根。チェーン店のような騒がしさはなく、落ち着いた古いランプのような雰囲気が漂っていた。
ここなら静かに休める。そう思って、店のドアを潜った。店内にはいった途端、濃いコーヒーの香りがした。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
母とは違う地味な女性が優しく接客してくれた。ひとりだと告げると窓際の席に案内してくれて、メニュー表と熱いおしぼりをだしてくれた。
「ご注文がお決まりに」
声を遮って、わたしは尋ねた。
「ここはコーヒーが有名なんですか?」
店内に漂う香りと客のほとんどがコーヒーを飲んでいるように思えた。メニュー表にはたくさんの飲み物が載っているのに、誰もがコーヒーカップを持っている。
「ええ、そうなんですよ。有名といっても知るひとぞ知るっていう感じなんですけどね。店主の淹れるコーヒーがとびきり苦いもので、それがいいっておっしゃってくれるお客様が多いんですよ。変わってるでしょう?」
コーヒーぐらい飲めるようになりなさい。母の言葉を思いだした。
「じゃあコーヒーをひとつ。ホットでお願いします」
「かしこまりました。ミルクや砂糖はどうします? ホイップクリームをおつけすることもできますよ」
「いえ、ブラックでお願いします」
女性は頷くと、店の奥に消えていった。
木製のテーブルを見つめながら、母のことを考えていた。ここ最近ずっと考えていることを。
お母さん、あなたはわたしをとても大切にしてくれたけれど、ほんとうにわたしのことを愛していた? 嫌いだったんじゃないの? 愛してたのは演技で、本当はわたしのことうっとうしかったんじゃない?
記憶と感情でそうだと思い込むことは出来ても、答えのない問いだった。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
置かれたコーヒーはぼってりとした分厚い白色のカップにはいっていた。思ったよりも量が多い。普通の店の2倍はありそうだ。
カップを手に取る。ずっしりとした重みが指に伝わってコーヒーの香りがより強くなる。滑らかな陶器は口当たりがよかった。けれどコーヒーを一口飲むと咽せるかと思った。熱いと思うと強烈な苦味が広がって酸味も感じた。
こぼさないように苦労してカップをソーサーに戻して、どうしようかと考えた。わたしは今だにコーヒーに砂糖やミルクをいれてるのだ。とてもじゃないけれど、ブラックなんて飲めやしない。このまま勘定してしまおうか。そう考えたら、言葉が浮かんできた。
混じり気なく苦いものを飲み干せるようになりなさい。母の言葉だった。
コーヒーカップを手に取る。口をつけて、味わうようにゆっくりと飲み込んでいく。苦い。目を閉じてしまう。
一息ついて、カップを置く。まだ半分ぐらい残ってる。
定期的に振り込まれる預金通帳、25の誕生日以降、それは止まった。
コーヒを飲む。少し冷めたからか酸味が強くなっていた。さっきよりも飲み込むのが辛い。それでも飲み続ける。
お母さん、あなたは夫に捨てられたのに、わたしを捨てたのね。そうじゃないと思いたくてお金を振り込んでいたのかもしれないけど、わたしがひとり立ちできるまで待っていたのかもしれないけど、やっぱりあなたはこどもを捨てたのよ。
あとふたくちかひとくち、カップを軽く感じる。喉が痛くて、胸と喉に熱くて重いかたまりがある。わたしはこれを砕いて飲み干したい。
息をついて、カップを戻した。カップの底の丸い縁にほんの少しだけ水滴のようなコーヒーがまだ残っていた。
わたしはベルを鳴らして、勘定をお願いした。
その日から、わたしは母を探すことをやめた。
1/10/2026, 4:31:44 PM