たろ

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【行かないでと、願ったのに】

声が出ない。これはきっと夢だ。
『待って!行かないで!』
手を伸ばした先の愛しい人は、ちらりと視線だけ寄越す様に立ち止まるも、一瞥のみを残して冷たく去っていく。
(夢なら、醒めてくれ!)
夢を自覚しても、なかなか醒める事が出来ない。
悪い夢の時はそれが顕著で、魘されども起きる事が出来ずに、悪夢に振り回されてしまう。

「―――っ!」
陸に上がった魚のように、肩で息を継ぐ。
「カズ?」
ベッドの隣を弄って、定位置に居るはずの愛しい人の姿形を探す。
「…いや、泊まりで仕事。」
言い聴かせるように呟いた声は、しんと静まり返る夜の静寂に吸い込まれていった。
「…温かい物。」
ひとつ溜息を溢して、寝具から抜け出す。

悪夢の後は、ほぼ眠気が来ないので、もう眠れそうにはないが。
(無事に帰って来てくれれば良い。寄り道しても良いから…。)
もう一度、眠気が来てくれますように、と願いながら、カフェインが少ない温かい飲み物を用意する。

部屋の照明を絞って、念の為にブランケットに包まって用意した飲み物と一緒に夜の静寂をやり過ごす。
(夢日記ばっかり増えてく…。)
悪夢ほど忘れられず、脳裡に残り続けるので、小さいノートに書き留めている。
吐き出す為に小さいノートいっぱい書き綴ったら、破って燃やしたり捨てたりするのだ。
本当は、良い夢を書き留めたいのに。


携帯電話が、愛しい人からの着信を知らせる。
『ごめんね、かっちゃん。仕事、延長になっちゃって…。帰るの、2日後になる。』
帰ってくるであろう電話と思って取った電話の声は、疲労と悲壮に沈んでいた。
『あー!帰りたいぃ!…帰ったら、ハグしてくれる?よしよしして欲しい。』
電話口の向こうで鼻をすする音がして、べそべそと泣きそうな声が聴こえて来る。
「わかった。残り2日、無事に帰って来て。待ってるから。怪我と風邪は、こっちに戻ってからにして。」
帰って来たら、とびきり甘えさせて、しっかり休んでもらおうと決めた。


帰宅時間を知らせるメールが届いて、最寄り駅まで迎えに行く事にした。
「再延長は免れたー!ただいま!」
最寄り駅の改札前まで飛んできた愛しい人の身体を抱き止めて、止まらぬ勢いのままにくるりと一周回る。
「おかえり、カズくん。お疲れ様でした。」
愛しい人の後頭部をそっと撫でて、延長戦までお伴をしてくれたスーツケースと鞄をつかんで、散逸しないように掴まえた。



11/3/2025, 10:34:22 AM