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母は美しい人でした。
母の横顔をよく思い出します。
すっと通った鼻筋、柔らかな弧を描いた眉、スラリとのびた首筋とまとめ髪の後毛。
思い出の中で母は優しげに、ゆっくりと微笑んでいます。
微笑みだけではなく、母はいつも悠然としていました。
同級生の話を聞くと、母親というものに
抱くイメージが随分違うことに驚いたものです。
同級生たちの話を聞いていると、母親というのはもっと忙しなく、自分勝手で感情的だというのです。
彼女たちの日々の苛立ちや鬱憤の原因の多くは母親でした。
私の母が、世間一般的な母親像からはみ出した人だということは、幼い頃からなんとなく気づいてはいました。
母が私の同級生、お友達の母親と話したりしているのをあまり見たことがありませんでした。
母は、孤立していたように思います。
しかし、母がそれを嘆いたりしたことはありませんでした。
というより、母が感情的だったことがないのです。
それは、私たち姉妹に対しても同じでした。
母は、いつも優しげでゆっくりと微笑んでいます。
私たちが喧嘩したり、笑いあっていても、母は少し遠く離れたところから
眺めているだけでした。
優しげな微笑みを湛えて。
喧嘩をしていた私たちは、母の静かな視線に気づいて、なんとなく気づまりな雰囲気になり、喧嘩は曖昧に終わります。
私たちを咎めるようなものではないのですが、母の視線はいつもどこか冷ややかでした。
今となっては、あの冷ややかさは、母は私たち娘にあまり興味が持てなかった為なのではと思います。母は終始、そういう人でした。
それでも母は、私たちに食事と清潔な衣服を与えてくれました。
母の食事は、いつも少し……水分が多かったように思います。
何事も美しく丁寧な母でしたが、料理だけはそうではありませんでした。
どの品も水浸しのような食感で、おひたしなどは本当にびちゃびちゃとしていて
お皿に水気が溜まっているほどでした。
私も妹も、給食の方が好きでした。
妹は今でもおひたしが苦手だと言います。
食事以外、母はほとんどにおいて、優雅な美しさを持ち続けていた人でした。
母とはあまり話しませんでした。
私の中にあるのは、母のスッとした佇まいとか静かな微笑みばかりです。
あまり会話をした覚えがないのです。
幼い頃からそうだったので、それが普通だと思っていました。
母親というのは喋らないものだと。
母が、私たちと違う時間軸で生きているのかもしれない、と気づいたのは小学校に入る頃だったような気がします。
そんな母でしたが、唯一感情というものを表すことがありました。
それはいつも決まった季節、夏の頃です。
庭の月下美人です。月下美人の花が咲くのを、母はいつも心待ちにしていました。
梅雨時からよく庭に出ては、花芽がついていないか確認する母の姿を覚えています。
いつも優雅な母が、月下美人の開花が近づくと、少しだけそわそわと落ち着かなくなりました。
それは、いつもの母と違っていて、大変な違和感を覚えたものです。
もうそれは居心地が悪いほどでした。
私たちにとって、母は、そういう存在ではありませんでした。
感情的だとか気持ちの揺れ、みたいなものを抱えている母に近づきたくなかったのを覚えています。
月下美人の開花を待つ母は、まるで恋人を待つようなうっとりした目でした。そんな熱っぽい瞳は、母には不釣り合いな気がしました。
私には分かるの、と母は言いました。
いつ咲くのか、分かるのよ。
母が言った通り、毎年、母が今夜咲くわ、と言ったその日の夜に月下美人は咲きました。
美しい花です。見事な白い大輪の花。毎年、一晩だけ咲かせる花です。
母は今年も咲いたわ、と満足そうに目を細めます。私達が寝た後も母は、ずっと月下美人の側を離れませんでした。
月下美人というのは美しい花なのですが、匂いも強烈です。
その匂いは次の日も午前中もたっぷりと鼻をついて来るのです。
開花した夜よりも、次の日の朝の方が苦手でした。
月下美人が残した濃密な匂いの中、母の笑顔はいつにも増して優雅でした。
そして、生気が与えられたような瑞々しさがありました。
いつも青白かった母の肌は、少しだけ血の色を帯び、月下美人の匂いをまとわりつかせていました。
その時の母の顔はあまり見たくはありませんでした。私の知る母ではありませんでしたから。
月下美人の花が一晩で終わる花で本当に良かったと思います。

母が亡くなったのは、5年ほど前です。
今、庭の手入れをしているのは私です。
手入れと言っても、草を抜いたり、落ち葉を掃いたりする程度です。
母のように丹念なことはできません。
母は庭を美しく手入れしていましたから。
最近、私は知らず知らずのうちに庭に出る回数が増えたような気がします。
今は、初夏。湿った空気の中庭に佇む涼し気な母を思い出します。
今年も月下美人は、咲くでしょうか。
花芽が出たかどうか私は確認します。夏に向けて暑くなるたび、膨らんでやがてつぼみになるのかと思うと、少しだけ胸の奥を摘まれたような、そんな気になります。
今でも月下美人は苦手です。
あの濃密な香りも、母の熱っぽい目も、思い出すと不快です。
それなのに、気になって仕方がないのです。今年、月下美人はいつ咲くのか。
先日、妹が遊びに来てくれました。
庭にいる私を見て、妹は笑って言いました。
「お姉ちゃん、最近お母さんに似てきたね、そっくりだよ」
妹の言葉に、少しだけ背筋を冷やしました。そうでしょうか?
私は、母のような優雅さはありません。でも妹は言うのです。
「ほら、そうやって、ゆっくり笑うの、そっくり」と。
そうならば、私も月下美人に向かって向かって、熱のようなまなざしを向けるのでしょうか。あのときの母と同じように。
今年も、月下美人は咲くでしょう。
私は、その日が分かるような気がします。

6/11/2025, 12:02:50 AM