夏の夜。
暗い海に小船で漕ぎ出すと、どこからともなく声が聞こえることがある。
「柄杓《ひしゃく》をくれ」
この声の正体は船幽霊。
海で沈んだ者たちが悪霊になったものだ。
この時驚いて、柄杓を船幽霊に渡してはいけない。
もし柄杓を海に投げ入れようものなら、柄杓を持った無数の手が海から出てくることになる。
そして、自分が乗っている船に水を入れ始め、船を沈没させようとしてくるのだ
もし船幽霊に遭遇したときは、柄杓の底を抜いてから投げ入れろ。
船幽霊が、思うように水を汲めないことに戸惑っているうちに、逃げるのだ。
でなければ、お前も船幽霊の一部になるだろう……
■__
「はい、この辺りに伝わる船幽霊の話でした。
というわけで、ヒナタさん。
船幽霊に会いに行きましょう」
「なんでじゃあ!
私はアイドルぞ!」
目の前の男を睨みつけながら、私は叫ぶ。
この男は私のマネージャー。
私の仕事を取ってくるのがコイツの役目。
今日も仕事だと言われて、海辺に出てきてみれば、恐い話からの『幽霊に会いに行きましょう』発言。
何考えてんだ?
「何でって……
アイドルの仕事ですよ」
「どこがだ!」
そんなことも分からないのかと、マネージャーは首を振る。
コイツはマネージャーのくせに、仕事よりも私をイライラさせるのが得意な野郎だ。
担当変えて欲しい。
切実に。
「ヒナタさんの握手会を開くために必要です」
「意味が分からない!
それともオカルト系アイドルとして売り出す気――
待て、それも良さそうみたいな顔すんな!」
マネージャーは、私の叫びを意に介さず、ため息を吐く。
まるで私が悪いかのような態度が、余計に私をいらだたせる。
前から生意気だと思っていたが、コイツ本当にムカつく。
「ちゃんと理由があります」
「遺言があるなら聞きましょう」
「理由は、あなたが売れないアイドルだからです」
「どこがよ!」
「まずその口の悪さ、歌では音程を外す、ダンスは下手くそ、愛想も悪い、ネットではしょっちゅう炎上する……
おかげでヒナタさんのファンクラブの会員は0です」
「でも、超かわいいでしょ!」
「はい。
そしてそれだけで採用した事を、我々事務所は非常に悔いております」
「何て言い草だ」
アイドルなんて顔がよければだれでも出来るだろうに。
口の悪いアイドルや、音痴なアイドルも知っているし、踊れないやつも不愛想ななつも知っている。
なぜ私だけだが、こうも責められるのか?
「彼女たちは、それでも頑張るんですよ。
そこが評価されています。
そしてヒナタさんはサボります」
「心読むな」
「顔に出ているんですよ」
そう言うマネージャーは、心底不快そうだ。
決して担当のアイドルに向けていい感情ではない。
「ですが、そんな屑アイドルでも握手会せねばいけません」
「そこまで嫌ならしなければいいのに」
「そうもいきません。
ウチの事務所は、ウチからデビューしたアイドルは半年で握手会を開くと公言しています」
「あー、そういや言ってわね」
オーディションの説明の時、そんな事を言っていた気がする。
飽きたから寝て、ほとんど聞いてなかったけども。
「思い出しましたか?
だからウチのオーディションに人が集まるのです。
アイドルとしての大イベントが約束されていますから。
ですから、いかなる理由であろうと握手会を中止することはできません
信用に関わります。
たとえ、あなたがアイドル以下だったとしても、です」
「てめえ、ボロクソに言いやがって」
「そう思うのなら、頑張って人気を出してほしかったものですね」
「くっ」
私は正論を言われてぐうの音も出ない。
正論をためらいなく言うコイツ、本当に嫌いだ。
「いいですか。
我々は以上の理由から握手会を開催せねばなりません。
しかし、このまま握手会を行っても、閑古鳥が鳴くのは必然。
これでは開催しないも一緒……
でも船幽霊なら解決してくれます」
「繋がりが見えないけど?」
「まず、海に小船で漕ぎ出します。
船幽霊が出たら、柄杓の代わりにアナタの手を出します。
するとどうでしょう?
柄杓と勘違いしたおばけがアナタの手を掴み、握手することになります!
握手会の出来上がりです」
私は絶句した。
マネージャーの頭の悪い発案に、開いた口が塞がらない。
幽霊と握手なんて何考えてるんだ!
だが黙ったままでは、このまま押し切られてしまう。
私はなんとか心を落ち着かせて、マネージャーを睨む。
「却下!
気持ち悪いもの!」
「ワガママな……」
「じゃああんたがやってみなさいよ!」
「嫌ですよ。
気持ち悪い」
コイツ、自分が出来ないことを、他人にやらそうと言うのかよ
人間の風上にも置けん。
「もう一つ選択肢があります」
「あるじゃないの、選択肢……
なにかしら?」
「もう一つの案、それはあなたが自分からアイドルを辞めることです。
そうすれば我々としても、ギリギリ言い訳できます」
「は?
辞めるわけねーだろ」
「では、船幽霊と握手会してくださいね」
「嫌」
「ですが、どちらかしか選べません。
我々としてはアイドルを辞めて頂いた方が嬉しいのですが……」
「てめえ、嘘でもやめて欲しくないと言えよ!」
「つく嘘も程度というものがありまして」
「ふざけやがって。
行ってやるよ、船幽霊の所に!」
舐められっぱなしじゃ女がすたる。
やってやろうじゃないか!
握手会!
「はあ、行くのかあ。
やだななあ、お化け怖いなあ」
発案者のマネージャーは嫌そうに船に乗る。
言い出しっぺはコイツなのに、なんで嫌そうなのか?
コイツを夜の海に突き出したい衝動を抑えながら、私たちは船幽霊の所と船をこぎ出すのだった
■__
次の日。
私が船幽霊と握手している様子が、ネット上で公開された。
同行したマネージャーが、をとるため持っていたカメラで一部始終を撮っていたのだ。
淡々と船幽霊と握手しているだけの動画だったが、『握手会が行われた証拠』として必要だったらしい。
握手会は、とくにこれと言ったトラブルなく、淡々と行われた。
しいて言えば、船幽霊の手がぞっとするほど冷たかったくらいである。
見ごたえもなく、見せ場もなく、ただの記録用の動画。
だからこの動画は物好きな数人が見るだけで、ネットに埋もれるのだと思っていたのだが……
「ヒナタさん、喜んでください!
握手会の動画、大盛況ですよ」
私が事務所の休憩室で、頭にお清めの塩を乗せて、セルフ除霊のやり方を調べていると、ノックもせずマネージャーが部屋に入ってくる。
いつになく、興奮している様子だ。
アレが大盛況?
どういうことだ?
「ほらコメントを見てください。
『幽霊と握手だと!?』『アイドル失格だと思ってたけど、度胸だけはあるのな』『まじかよ、見直したぜ』『ミジンコからゾウリムシにレベルアップだ』。
こんなに熱い声援を送られるなんて、アイドル冥利につきますね」
「ただ単に面白がっているだけじゃないの!」
どう見ても、ネットのおもちゃになっているようにしか見えない。
ってか、ミジンコからゾウリムシって何?
私、人間とすら見られてないの!?
「それに、あなたのファンクラブの会員数がどんどん増えています。
0だったのに、一日で1000人ですよ。
歴史的事件です」
「事件とか言うな!
そいつら絶対面白半分で登録しただけだろ!」
「次はサイン会ですね。
ウチでデビューしたアイドルは、一年以内にサイン会しないといけませんから」
「無視すんな」
私の抗議も聞こえてないのか、マネージャーは考えこみ始めた。
こういう時、たいてい碌でもないことを言い出す
「次は『赤紙青紙』で行きましょう。
向こうで紙を用意してくれますし、一石二鳥です」
「赤紙青紙はそう言う妖怪じゃねえから!
というか、人が集まらない前提で話を進めるな!」
「集まるとでも?」
「集まるわい!
というか、私にはすでにファンがいるだろうが!
1000人も!」
「そいつら面白がって登録しただけですよ」
「くそが!」
「嫌ならちゃんとファンを集めてくださいね。
無理だと思いますけど」
言わなくてもいい事を言うコイツは、本当に心の底から大嫌いだ。
こういう時は励ますのが普通だろうに、その役目すら放棄している。
しかも「オカルト路線、受けると思うんだけどなあ」だと。
やっぱりマネージャーを変えるしかない。
持っていた塩をマネージャーに投げつけて、私は宣言する
「今に見てろ。
ファンを集めてみせるからな!」
もう二度と、コイツに馬鹿にはさせん!
絶対に、ぜえーったいに見返してやるからな!
8/16/2024, 3:01:25 PM