コトリ、と音を立てて置かれた「それ」を、つい目で追ってしまったのは仕方のないことだと思う。
つい先ほどまで彼の指で光っていたはずの指輪は、同じ物であるはずなのに全く別のものに見えて仕方ない。本来なら流れに沿って私も外すべきなのかもしれないが、視界がぐにゃぐにゃと揺れてそれどころではなく。ただ沈黙が喉を絞めて息が苦しくなる。
「結婚とは、一種の契約です」
突然の一言に困惑したが、頷く。
「これからの人生を互いに預け、共に生き、相手を大切にするという契約。それが結婚であると私は思っているんです」
少し小難しい言い方な気がしなくもないが、別に間違ったことは言っていない。特に反論も無く再度頷き、そこで首をかしげる。
てっきり私は、彼に何か粗相をしてしまったのかと思っていた。知らない間に彼を傷つけていたとか、彼の両親の不興を買ってしまったとか、それとも飽きられてしまった、とか。
特に彼を束縛したりだとか、不必要に女性関係に敏感になった覚えは到底ない。会社の付き合いというものも納得しているし、部下を率いる立場の人だ。食事に行くことも多々あるだろう、特に疑心を持ったことも無かった。何よりも彼の口から自分以外の女性の話なんてついぞ聞いたことが無かったものだから、そもそも考えていなかったとも言える。
「今まで、特に女性の話は聞いて来なかったですけど……もしかして、他に好きな人でも出来ましたか?」
「有り得ません」
食い気味に否定されてしまった。嬉しい反面、疑問符しか浮かばない頭で必死に考える。離婚なんて、ちょっとやそっとじゃ出てこない選択肢だと思う。よっぽどの理由があるか、私に隠し事があるか。
「素直に離婚して貰えませんか」
「理由無しになんてできません。説明をください」
少し目線を逸らした彼は、申し訳なさそうな顔をした後、真っ直ぐに私の眼をみた。
その顔を私はよく知っている。夜に私を貪る獣の顔だ。私が一生かけても敵わない男の、私にだけ向いている劣情。反射でびくりとするのを必死で抑えつける。
「先ほども言いましたが、結婚とは契約です。つまり、反故にする場合は破棄しなければならない。」
私の手にスッと手が伸びた。右手の指輪を、ゆっくりとした速度だがしきりに撫でられる。
「相手を大切にする。つまり、あなたを今後今までのように甘やかしてはあげられないんです。私が我慢ならない」
あなたが眠っている間、どれだけあなたをぐちゃぐちゃにしたかったか、泣かせたかったか知らないでしょう。閉じ込めたいとどれだけ願ったか。自分だけの物でいてくれと何度言い聞かせてたか。分からないのも当然です、見せないようにしていましたから。
普通の人はもっと大切に愛しますし、自由を奪うような……こんな方法は取らないでしょう。なるべく長く隠すように決めたつもりでしたけど。あなたを騙しているようで心苦しかったんです。
一息に言って私の指輪にキスを一つ落とした彼は、自室に向かいじゃらじゃらと鎖を引っ付けた首輪を持って来た。机の上に置かれた物にこれは何?とか誰用?とか聞くのは野暮だ。彼の好きな青色の綺麗な首輪。
「ね、理解しましたか。今指輪を置いて頂ければ、すぐに離婚届を持ってきます。私の分は既に記入済みですし」
なんと用意がいいことで。彼のことだ、あとは私が名前を書くだけで離婚が成立するよう色々準備したに違いない。
確かに一般の人達は、自分の配偶者に首輪をつけようなんて思うことはないだろう。彼の言っていることは「自分だけのペットが欲しい」に近しい。私は人間だし、私なりの意思がある。それを制限するための首輪でもあるだろうけど、一番は逃亡防止だ。
「私が寝てる間にこれを着けようとは思わなかったんですか?そうしたら、私は何も出来ませんでした」
「……無理強いは、させたくなかったので」
つまり彼は、私に自分の意思で着けて欲しかったと。
再度彼を見る。
怯えていた。見たことの無い顔だった。指輪に手を掛かると眼を閉じたのが前髪越しにでも分かる。このまま薬指から抜いて見せれば、彼は無理に笑ってそのまま離婚し姿を消すだろう。いやもしかしたら、吹っ切れて無理矢理犯される可能性も無くはない。
……それもいいかな。なんて考えが出た自分に一瞬驚いた。私は破滅願望でも持っていたんだろうか。
大体、結婚したということは、私はあなたのものだし、あなただって私のもの。なんで話し合いじゃなくて離婚を突きつけられなきゃいけないのか。そりゃあ色々逸脱している部分はあるが、何もここまでしなくても。
そこで、私はようやく自分自身が少し怒っていることに気がついた。と同時に、そこまで彼に愛されているのが堪らなく嬉しかった。
指輪を外して、彼が外した隣に置く。口を真一文字に結ぶ彼に少し笑いそうになる。
「言う通りにします。夫とか、妻とか、もうやめましょうか」
「……そっか。分かりました。なら離婚届を」
「その必要はないです」
は、と彼が顔を上げた瞬間に首輪を突きつける。鎖が結構重い。腕がプルプルしているのを察してか、慌てて受け取られた。
「着けてくれるんですよね?」
顎を上げながら言うと、少し見下ろしているようになってしまったけど、彼が泣きながら頷いたのでよしとしよう。
首が重い。自由に動けないし、じゃらじゃらうるさいし、時々嫌になるくらいいじめられる。でも私を見て彼がわらうから、その眼を私に向けてくれるから。良かった、と今日も安堵するのだ。
2024/7/16
「終わりにしよう」
7/16/2024, 1:54:49 AM