もんぷ

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勿忘草(わすれなぐさ)

 私を忘れないでなんて言う言葉は、何気なくなんて使わない。それは、ちょっとでも忘れてたらやだなぁなんていう俗っぽい束縛なんかじゃない。自分を忘れてしまうかもしれないぐらいの長いお別れにおいて、少しでもこの存在を心に留めておいてほしいというそのささやかなお願いはどんなものよりも愛おしい。

 すんと何気なく鼻を鳴らすと奥の方でじんわり涙の味がした。涙脆いのは自分の元からの性格で、だからといっていつも泣いているわけではないんだけど。あぁ、今日はなんかダメな日だな、と思う。冷たい布団と部屋の空気は体温を奪い、まだ明るくならない時間に眠気をどこかへ蹴り飛ばす。携帯を見るのさえ億劫で、早く夢の世界に入りたいのに、どうしても頭が働いてしまうのはあの日をぞんざいに扱ってしまった分のツケが回ってきているのだろう。

「忘れるわけない」なんて当たり前の返答をしたら、あの人はどんなふうに笑ったっけ。その存在のどんな小さなことでもいいから覚えておきたくて、眠る前には決まってあの日を反芻しているくせに、日々淘汰されていく記憶は確実に自分から遠ざかる。何か嫌になってしまう夜も、声が聴きたいとぼんやり思う朝も、何度も乗り越えてきている中で、ふと、涙と共に溢れ出てくるどこにもぶつけられない感情は、愛情は、何になるのだろうか。せめて、嘘でもまた会えるなんて言ってくれたらその希望を胸に馬鹿みたいに幸せに暮らせただろうか。いや、あの人はそんな不確実な約束はしないだろうな。そもそもずっと一緒だと信じていたのが悪かったのだろうか。あまりにもその存在の居心地が良かったから、いなくなるなんていう悪い妄想は無意識のうちに拒否していたんだろう。心構えぐらいしておけばいい、と今なら思える。人はいつしか皆いなくなる…なんて想像を広げても、それならまだいるはずのあの人と会いたいと思ってしまうから逆効果だ。すっかり覚めてしまった目にじんわりと水分が溜まった。

 忘れないでなんて、どんな思いで言ったんだろう。忘れてほしくないなら、忘れないようにずっといてくれればいいじゃないか。なぜ、だめなのか。それを聞く前にその温もりを離してしまった自分は本当にダメだ。深くついたため息は思いの外掠れていた。忘れてなんて言ってくれたほうが気が楽なのは分かる。いや、忘れられるわけはないんだけど。

2/2/2026, 10:52:56 AM