いずみ

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海の磯の匂いを運ぶ生ぬるい風が、ふと俺の頬をかすめた。あたりにはツンと鼻の奥に突き刺さるような血の匂いが充満している。目を開けると、そこにはただ赤くにじむ空があった。
あぁ、生き残ったのか。
その実感が湧くと同時に、一気に凄まじいまでの情報量が押し寄せてきた。右腕がとてつもなく痛い、のどが渇いて仕方がない、なにか飲みたい、息が苦しい、体が鉛のように重い、誰か、誰かいないのか、生きている仲間は。

その暴虐にしばらく耐えていると、少しづつ脳が身体の感覚に慣れてきた。右腕は全く動かないが、左腕なら少しは動かせそうだ。水が飲みたい。一刻も早く。俺はぎこちなく立ち上がると、あたりを見渡した。水がある!国中の兵士が飲んでも絶えないほどの水が。まだ思考力の戻らない頭はとにかく水を求めて、俺に海へ行くように命じた。海の水が辛いことは知っている。でも、少しでも渇きが癒せるなら。強烈な欲求に支配された俺の体は理性が止めるのも無視して海へ向かっていた。

ドスッ

足元で鈍い音がした。いや、さっきまでもしていたはずだ。五感が遠のくほど極限の感情に支配されていただけで。不思議な感覚だ。こういう感覚は以前も何度か覚えたことがある。そういうときはいつも極限の状態で、その感覚の命じるままに体を動かすだけで俺は生き残ってきた。今、この感覚が命じているのは足元を見ることだ。少し頭がスッキリしてきたような気がする。何度か息を吸ったり吐いたりすると、気持ちも落ち着いてきた。ゆっくり足元を見る。そこには先程から何度も踏んづけてきた、見慣れた軍服があった。しかし、何やら腕に腕章をつけている。これは、補給隊のものだ。もしかしたら近くに馬車が。急いで馬車を探すと、それは思いのほか早く見つかった。荷は荒らされているが、あまり減っていないようだった。あった、水だ!これでようやく一息つける。

水の入った袋を片手に馬車から移動すると、近くから波の音が聞こえてきた。後ろを振り向くと、そこにはまるで使命を終えたかのようにゆっくりと沈む夕日があった。こんなおっかない太陽は見たことがなかった。おぼつかない足取りで砂浜に座る。まるでこの世界に一人取り残されたかのようだった。

4/7/2024, 3:01:37 PM