俺が隙をつくと竹刀はあの人の手から離れる。
竹刀の落ちる音が稽古場に響く。
あの人は落ちた竹刀を見つめて黙ったままだった。
俺は構わずに稽古場を後にする。
勝てるはずがない。
俺との力の差は歴然だ。
あの人もそれをわかっている。
あの人はいつも朝一番に稽古場へ行く。
そして昼ごはんまで1人で練習をしている。
俺が昼ごはんの後気持ちよくて寝そうなとき、あの人は休憩をそこそこにまた稽古場へ行く。
勝てるはずがない。
この前、すれ違いざまにあの人に言った。
あの人は自分に向けられた悪意ある言葉を理解すると、俺の方を微塵も見ずに「それが諦める理由にはならない。」と言って歩き出した。
あの人が向かう先はいつもと一緒だった。
放課後に友達と夜中まで遊んで帰った時、親にひどく叱られた。
そういえばうちには門限があったんだったな。
床に正座させられている俺を稽古終わりのあの人が横目で見ていた。
何気ないふりを繕っていたが、動きに落ち着きがなかった。
姉だからって心配でもしているのだろうか。
そう思うと無性に腹が立った。
この前、珍しく稽古で指を痛めたからテーピングをしている。
使っているのは家族共有のテーピングだ。
そして、家族でケガをしているのは俺だけだ。
おかしい。
テーピングの減りが1人で使う速さじゃない。
最初は気のせいかと思ったが、俺以外にも使っている奴がいた。
練習前にテーピングを貼り替えようとした時にあの人が使っていたのだ。
手伝おうかと声をかけようと思ったが、随分と慣れた手つきだったのでやめた。
そういえば久しぶりに出したテーピングは古くなかった。
あの人がいつも使っていたのだろう。
いつも見ているのに気づかなかった。
勝てるはずがない。
今日の試合も俺が勝った。
あの人は前より上手くなっていた。
だけど俺は少しも押されなかった。
あの人を見ると、悔しそうな顔をしていた。
珍しい、普段なら涼しい顔で立ち上がるのに。
俺は今日の勝利にあまり喜べなかった。
なぜだろう。
そもそも、あの人との試合で勝っても喜ぶことなんてあっただろうか。
「不敗の弟くーん。今日もおねーさんに楽勝で勝ちましたねー。」
「…あぁ。」
「あれ?反応悪いなー?もしかして今日はギリギリだったとか!?」
「そんなわけねぇ。あの人が俺に勝てるはずがないだろ。」
言い放った言葉が喉に嫌な違和感を残す。
初めてあの人と試合をして、初めて勝った時は嬉しかった。
…それ以降は分からない。
気がつくと、あの人はもう稽古場にいなかった。
そういえば、最近は日が昇るより先に稽古場の灯りが灯っている。
あの人は、今日のために相当練習して、対策もしたんだろうか。
そう考えるとこの前のテーピングにも合点がいった。
次の日、あの人は相変わらずだった。
昨日の事がなかったかのように、稽古場へ向かう足取りと表情に変わりはなかった。
俺は廊下に出て大の字であの人の行く手を阻む。
あの人は目の前で立ち止まると「おはよう。」と言った。
想像もしてなかったその言葉に俺の頭はローディングする。
「…おはよう、ねぇちゃん。」
「それじゃあ。」
そう言い残すと俺の左脇の下を通り過ぎて稽古場へ向かって行こうとした。
行かせるわけには行かなかった俺は、なんとかして歩みを止めてもらおうと声をかける。
「ねぇちゃん、きつくないの?」
俺の企みは成功しあの人は足を止める。
なんでそうまでして頑張るの?
いつまでその努力を続けるの?
立ち止まりたいと思う時はないの?
俺のことが嫌いにならないの?
あの人は振り返って言った。
「私がきついことを理由に諦めると思う?」
勝てるはずがない。
俺があの人に勝って喜んだのは1回きりだ。
最初は嬉しかった。
年上の姉に勝って喜ばない弟なんてない。
だけど2回目からはそんなものはなかった。
あの人は俺に負けた日から今日まで稽古をし続けている。
俺の目にはあの人の努力が執念のように見えた。
だから、あの人との試合が終わると毎回心で呟いていた。
「良かった。」
今回も負けなくて良かった。
勝った喜びなんて感じる余裕はなかった。
だって俺は、いつか、あの人の執念に食われるから。
それが今日じゃなくて良かった。
試合が終わって思うのはそれだけだった。
あの人は俺に勝つまで止まらないだろう。
俺はある意味狩られ続ける獲物だ。
少しでも気を抜いたらあの人は食いちぎりに来る。
試合で手を抜くことはない。
相手があの人なら尚更だ。
この狩りはあの人が勝つまで終わらない。
あの人は狩りに勝つまで努力をやめない。
だから俺は、あの人に、
勝てるはずがない。
3/30/2026, 1:41:33 PM