Yuno*

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【澄んだ瞳】

夜空を眺めながら散歩をするのが、俺の今の日課になりつつある。
用がある訳でもなければ、夜遊びにも興味はない。ただひんやりとした夜気が、勉強漬けの頭をスッキリさせてくれるのが好きだった。ベランダや庭に出るのではなく、歩かないと駄目だ。
最近は自宅から県立高校までのコースが気に入っていて、雨の日以外は毎日の様に歩いている。
特に高校の裏手にある小さな公園が良い。
夜桜ならぬ夜藤とでも表現すべきか、闇に浮かぶ透ける様な薄紫色が綺麗で、丁度今が盛りだった。

今夜も俺は公園へ向かう。この日は満月で、月の光を浴びて藤の花もより綺麗だろうと、気分が良かった。公園に着き、藤棚の下にあるベンチへ行こうとした俺の視界の隅で、動く人影があった。
何となく息を潜めて見守っていると、藤棚の前で影が止まる。
どうやら女のようだ。
年は恐らく俺と同じ高校生位。藤の花をずっと見詰めている。

人影はふと俺の方を振り返り―――眼が、合った。

降り注ぐ月光に、色素の薄い外国人女優の様な美しく繊細な顔が照らし出されている。彼女のその顔に軽い驚きの表情が浮かび、瞬く間にそれは含みのある微笑みに変わった。
俺は引き寄せられる様にゆっくりと、彼女の方へと歩いて行く。
彼女もまた、この藤に誘われて来たのかも知れないと、不思議な仲間意識の様な感情が湧いてきていた。

「夜ここに来るのは初めてだけど……綺麗ね」
「ああ」

表情には出さないが、基本的に女子と話をする事が苦手だった俺は、一言だけで短く同意した。
しばらくは二人して無言で花を見上げていたが、少ししてまた彼女は俺に話し掛けてくる。

「偶然?」
「……何が」
「こうして夜、ここの藤を見る事よ。私みたいに偶然見付けたの? それとも、いつも来てるの?」
「最近は良く来てるけど」

あまり話し掛けられるとボロが出る。動揺がバレるのは嫌だった。

「花が終わるまでの少しの間、私も来ようかなぁ……構わない?」
「別に俺の藤じゃないし、好きにすればいい」
「じゃ、そうする。貴方も来るでしょ?」
「さあな」

素っ気なく言うと、彼女は口許だけで笑った。

「――もうすぐ日付が変わるぜ。帰った方が良いんじゃねえの」

一瞬、彼女が淋し気な表情をしたように見えたが、気のせいだったらしい。彼女はすぐに頷き、小さく呟いた。

「うん。じゃあね」
「お休み」

この日から、俺の中で彼女は特別な存在になった。だがこの時点で恋心を抱いていたのかと言われると、少し違う気もする。

翌日もその翌日も、22時前に彼女は現れた。
示し合わせていた訳でもないので、会う確率はそう高くないと思っていた。
けど俺は、自分が心の奥で彼女を待っているのを自覚していたし、このデートめいた深夜の散歩が楽しく心地良い時間だったのだ。

「……また来たのか」
「来たよ」

お互いの姿を見付けると、俺達は軽口をたたき合い笑った。

「アンタ、高校生?」
「うん。一応ね」

何年生なのか、彼女は自分からは言おうとしなかった。大人びて見えるから、3年生だろうか。

「俺2年だけど、アンタは?」
「え! 2年なの? 先輩だったんだ」
「1年!?」
「うん」

まさか年下だったとは、俺も考えなかった。
大人びて見えるのは、表情や纏う空気が虚ろで淋し気だからだと気付いた。多分そのうっすらとした翳りに、俺は惹かれていた気がする。

「……もうすぐ、花も終わっちゃうね」
「そうだな」

事実、もう半分以上藤の花は散っていた。
花が終われば、俺と彼女はまた別々の日常へ戻って行く。それで良いような、淋しいような不思議な気分だ。
彼女もそう思っているのか、ただ一言、忘れないでと呟いた。

「そのうち、バッタリ会うかもな」

いつの間にか、彼女の眼にはうっすらと涙がゆらめいていた。

「そっか……じゃあ、さよならは言わない事にしようか」

そう言うと、彼女は何か振っ切れたような、澄んだ瞳で俺を見詰めた。

「元気でね」
「アンタも」

俺は彼女に背を向けて歩き出す。
そのまま振り向かない方が格好良いよな、と思いつつ結局俺はすぐに振り向いてしまった。

「な……!?」

走り去った気配も無かったのに、彼女は跡形も無く消えている。
いくら何でも不自然な早さで消えたのだ。

急にこの数日間が、全て夢か幻だったかの様な、奇妙な不安に苛まれた。

「何だ……何なんだアイツ」




その後数日して、一度だけ昼間にあの公園の前を通る機会があった。
夜に来ていた頃は気付かなかったけれど、事故でもあったのか、入口に花束やらマスコットやら、後はかなり色褪せたぬいぐるみも置いてある。
ふとその枯れかけた花束の中の一つにメッセージカードが付いているのに気付いた。
そして、そのメッセージを囲うように大量に貼られていたプリクラに眼を見張る。そこに写る全てに彼女の姿があった。

「これは……」

後ろから頭を殴られたような、なんて比喩表現があるけれど。
俺は今正に、それを身を以て体験したのだ。

「嘘だろ……じゃあ、俺と会っていたアイツは―――」

幽霊だったとでも言うのか。
忘れないで、と呟いた声が脳裏に蘇る。

俺は幽霊とか、オカルトとか信じてる訳じゃない。それでもあの日々や、彼女の事は否定したくない。
けれど空を仰いでも、公園を覗いても、もう彼女の気配はない。

存在した証さえ、俺にはもう見出だせないのだ。

7/30/2023, 12:33:21 PM