奈都

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お題「こんな夢を見た」



母が倒れていた。
血溜まりの中で、険しい顔で私を見上げながら。
耳鳴りがする。耳鳴りのせいで、母が何を言っているかは聞き取れない。

お母さん。

呼んでも自分の声さえ聞こえない。自分が立っているか座っているかもわからない。
耳鳴りが、母以外の全てをかき消していた。

母の口が動く。

『なんで』

音は聞こえなかった。でも見慣れた口の動きで、それだけは分かった。

いやだ。いやだ。いやだ。
どうしよう。どうすればいいの。お母さん。

耳鳴りは続く。母は大きく口を開けて怒鳴っている。私の視界は母だけを捉えている。

にげよう。

咄嗟に思った。

でも、どこへ?

悩む心をよそに、体はふわりと軽くなる。私は立ち上がったようだ。つまりずっと座っていたのだ。

母に背を向けようとして足を後ろに向ける。
だが母は私の視界の中心に居続けた。

なんで。なんで。なんで。

私の心の声が、母の声で再生される。
せっかく軽くなった体は漬物石のように重くなる。

いやだ。ごめんなさい。なんで。たすけて。

耳鳴りとともに頭に響くのは母の声。
小さく影が震えたかと思うと、目の前に、血まみれの母が立っていた。
赤い涙を流して繰り返す。

なんで。なんで。なんで。



恐怖に追われて目を開くと、自室の天井が飛び込んできた。
冬にもかかわらず、真夏の寝起きのような汗をかいている。それとは裏腹に、胸のうちは冷え切っていた。

恐ろしい夢を見ていた気がする。
震えの止まらない自分の体を抱きしめて、私はため息をついた。きっと今日返された模試の結果のせいだ。

志望校でB判定だった。1桁の順位がなかった。
友人に言えば自慢だと思われるかもしれないその事実は、私にとっては悲惨な結果だった。私というより、私の母にとって。

鞄の中にくしゃくしゃにして放り込んだその紙を母に見せることを考えて、私はもう一度ため息をつく。

窓の外を見ると太陽はいなかった。
どうやら帰ってきてすぐに不貞寝をしたらしい。
髪をかきむしって、鞄から忌み物を取り出す。少し伸ばして見た目をマシにする。これくらいならくしゃくしゃ具合に文句も言われないだろうと思った時、母の悲鳴が聞こえた。

誰よとか、出てってとか、言い争う声が聞こえたかと思うと、何か割れる音や倒れる音が聞こえた。
強盗だ。血の気が引いていくのを感じた。

どうしよう。お母さんが。助けなきゃ。でもまず警察に電話するべきだろうか。逃げなきゃ。

耳鳴りがする。
母の声が聞こえなくなり、荒々しい足音だけが響いてくる。その音は、リビングから、階段を登って、隣かその隣かの部屋に入っていく。タンスか何かが荒らされている音がする。

このままじゃ殺される。

私は自分の鞄を抱えてベッドの下に隠れた。
完全に日が没するまで間もない部屋の中はもう真っ暗だった。じっと、息を潜めて足音が消えるのを待つ。

がちゃり。
部屋のドアが開かれた。
足音のたびに広がる振動が、耳鳴りを悪化させていくような気がした。
棚にしまっていた本や、タンスの洋服が部屋に散乱していく。金が見当たらなかったからか、強盗はそそくさと私の部屋を去った。しばらくして遠くでドアの音が聞こえて、足音は途絶えた。

生き延びた安堵を感じたのも束の間、この部屋まで強盗がのこのこやって来れた意味を思い出して、私は恐怖に取り憑かれた。

リビングには母がいたはずだ。悲鳴も聞こえていた。
それが今は、家の中には物音ひとつしない。

血溜まりの誰かの姿がフラッシュバックする。

耳鳴りがまた強くなる。
母を呼ぶ私の声が遠くに聞こえる。

私はベッドの下から這い出て、廊下に出る。

土足で上がってきたのか、部屋にも廊下にも、泥の足跡が散見された。

母の返事はない。鞄を強く抱きしめる。ガチガチと歯が音を立てている。

きっと猿轡で返事ができないだけだ。もしくは隙を見てもう外に逃げたんだ。きっと。

思い込もうとしても、頭の中から恐怖は消えない。血溜まりの画も頭の中から消えない。

リビングのドアは開けられたままだった。
あかりがついているので、床の泥がよく見えた。
テレビの音が聞こえる。母はよくテレビを見ながら家事をしていた。

お母さん。

声に応えるものはない。テレビの音を掻き消すほどの耳鳴りがする。リビングに入りたくない。

唾を飲み込んで、私は一歩踏み出した。

テーブルの横に何かある。
母に似た何か。人形のように瞬きをすることなく、赤いインクの上に横たわっている、母に似た何か。

私は、お母さんを見殺しにしたんだ。

全身の力が抜けてへたりこむ。

どうしよう。だれか。お母さん。起きて。救急車。

頭の中で言葉がぐるぐる回っていて、口から出てこない。体も動かない。
動けない私の代わりに、血色のない唇が動いたように見えた。
耳鳴りに混じって、頭の中に声が響いた。

なんで、わたしを見捨てたの。

その時、頭の中がやけに静かになった。
動かない母を見つめながら、違う光景を見ていた。
動かない母の唇が動いている様子を、私は見ていた。

そうだ、私は前に、こんな夢を見たことがある。



おわり。

1/23/2023, 12:15:46 PM