あにの川流れ

Open App

 もうその顔の有様と言ったら、本当におかしくて。隊や街中で「鬼」とか「狗」とか恐れられているあなたが、ただただ眉を曲げて口をだらしなく緩めて泣きそうなのだから。

 障子のむこうでうろうろとして。
 産婆さんや近所の女性にたじたじと押されて、聞くところ、縁側でじっとしていたのだとか。
 私の声が響くたびにビクッと肩を跳ねる姿にいつもの気迫も威厳も何もない、とこそっと耳打ちされたときにはぐったりとしているのに、笑いそうになりましたよ。
 そんなに私もこの子も愛されているのか、そう思っただけで嬉しくなって。

 そうして産まれたのは女の子。
 その子を抱いて、あなたを迎えたときに、そんな顔をしているのだから。力なんて抜けてしまいましたよ。

 「よくやった……っ、本当に、本当に、よく、よく頑張ってくれた」
 「えぇ。あなたの勇姿もさきほど聞きましたよ」
 「ぐ……、そ、そんなことは聞かんで宜しい」

 顔を真っ赤にして。

 「具合は」
 「見ての通り。疲れてはいますが」
 「この子は」
 「産声は聞いていたでしょう? 今は安定していますよ」
 「……っはぁ」
 「それで」

 ビクッとあなたの肩が揺れる。
 くしゃりと袂か懐か、紙が潰れる音が。暇をつくっては学問やら文学やらを読み漁っていた姿が、脳裏に浮かんでくる。
 夕食時にあれこれ貯めた知識を私に伝えてきて、ああでもないこうでもない、と。

 「名前は、決まりましたか」
 「あ、……いや」

 視線が泳ぐ。
 命名式まであと六日。普段の決断力はどこへいったのか、もう何か月も優柔不断極まれり。ご近所の方々もあなたを見る目が変わった、と言っていましたよ。

 それに、もう、あなたの中では決まっているのでしょう。こういうときばかり、寡黙に輪を掛けるのですから。
 あなたの妻が私で良かったですね。

 「候補はあるのでしょう? ひとつ、言って下さい。それがおかしかったら、ばっさり切り捨てて。私の候補も同様にしましょう。さ、どうぞ」
 「う……ぐっ……ぅ」
 「この子も不憫ですよ」

 なぜか居住まいを正して正座。膝の上の拳が白く震え、ぐっと口は真一文字。
 そこまで緊張しますか……。

 「…………こ」
 「聞こえませんね」
 「つ、月子」
 「つきこ?」
 「あ、あぁ。天体の月に、子どもの子で」
 「いい響きじゃありませんか」

 何を参考にしたのか、と訊けば、あなたは本を一冊取り出して見せる。夏目漱石の『坊ちゃん』だった。
 本の内容は直接関係はないのだが、と添えて。

 「夏目漱石が英語の講義で、その、ア、アイラブユーを、月になぞらえて訳したというのを聞いて……」
 「愛子とはしなかったのですか? 真っ先に思い浮かんでいたじゃありませんか」
 「俺には荷が重い。その、名を呼ぶたびに赤面していては、おかしいだろう。慣れる気がせん。名は毎日呼ぶものだろう?」
 「私の名は毎日呼んではくれないのに?」
 「やッ、やめてくれ……!」

 バッと顔を背けて腕で顔を隠してしまう。赤くなった耳元は隠し損じてしまっていて。私に向き直りもせず、「それでッ!」と勢いに任せた声。
 だのに、二の句はひどく小さいもので。

 「ぜ、是非は……」
 「私も、この子を月子と呼ぶことにしました」
 「!」

 肩の荷を下ろすように息を吐いた。ホッとした表情で「そうか」と呟いて。そうしてまたしばらく黙りこくったあとに、ふわりと口許を緩める。
 私も。
 すると、もぞりと腕の中で身じろぐ子。
 あなたと顔を見合わせて、思わず笑いがこぼれていった。

 「君の候補は何だったんだ」
 「私のですか?」
 「君にもあったんだろう?」
 「そうですね、……けれど、次の子に残しておこうと思います。あなたも、また、すてきな名前を考えて下さいね」
 「――~~~~ッ」

 勢い良く立ち上がったあなたは、真っ赤な顔をして「ゆっくり休めッ」とほとんど叫んだ――と言っても、かすれた声で小さく。
 障子を閉める仕草もひどくやさしいもので、框は音も立てずに合わさったのだから。

 私も、きっとこの子も確信したことでしょう。




#Love you



2/24/2023, 4:57:16 AM