初音くろ

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今日のテーマ
《おうち時間でやりたいこと》





家に帰ったらやりたいこと。
・妻の手料理が食べたい。
・妻の淹れてくれる茶が飲みたい。
・妻の他愛ない話を聞きたい。
・妻の笑顔を眺めていたい。
・妻と一緒に酒が飲みたい。
・妻を抱き締めたい。
・妻の寝顔を見ながら二度寝したい。

妻と、妻の、妻を――


見ているだけで胸焼けを起こしそうなリストは見なかったことにして、そっと机の上に戻す。
目の下にくっきり隈を刻んだ男が譫言のように「家に帰りたい」と呟いているが、それも聞かなかったことにして聞き流す。
愛妻家で有名な上官殿は、連日の泊まり込みで幽鬼のような有様だ。

決算期の王城財務部は戦場もかくやといった状態で、役人達は官位の有無に拘わらず忙殺を極めている。
おまけに今期はそれに加えて隣国との諍いの煽りで通常以上の仕事が舞い込んできていた。
おかげで我が部署の職員達は、上官殿を始め、もう1ヶ月近くも家に帰れておらず、仮眠室で順に寝起きする生活が続いている。

「そろそろ限界じゃないでしょうか」
「そうだな。これ以上は効率が落ちるばかりだ。全員一斉にとはいかないが、数人ずつのローテーションで休息日を設けよう。何より閣下があんな状態で使い物にならないのでは効率以前の話だ」

最優先で決裁の必要な期日に猶予のない物のみを書類の山から素早く選別する。
書類は優先順位の高い順に積まれている。
具体的にはその上部の3束ほどが該当した。

「閣下、こちらの決裁をご確認頂きましたら、本日はご帰宅なさって下さい。そして明日1日心身ともに休息を取られ、明後日からまた続きをお願い致します」
「しかし、私が休んでは……」
「2日程度であれば何とか致します。休みなしでは効率も落ちる一方ですし、調整して部下達にも順番に休みを取らせます。上が休まなければ下の者達も休みにくいでしょう」

目を見開く上官殿にそう具申すると、彼の顔は目に見えて活力を取り戻した。
家に――愛妻の元に帰れるのがそれほどまでに嬉しいのだろう。
彼の妻に対する溺愛っぷりは王城内でも知らぬ者はいないほどだ。

「すまない、恩に着る!」

言うや否や、それまでの憔悴が嘘のように、猛スピードで書類の山を減らしていく。
目の前に好物の人参を下げられた馬も斯くやといった仕事ぶりである。
そうして午後いっぱいかかるだろうと思われた量の仕事を2時間ほどで片付け、上官殿は輝くような笑顔で颯爽と帰宅の途に就いたのだった。


「副官殿はよろしかったのですか」
「良くはないが、責任者が不在では何か問題が発生した時に対処できないだろう。閣下が戻られたら、頃合を見て私も一旦帰らせてもらうよ」

気遣わしげな様子の部下に苦笑で答え、俺は書類の山を減らしにかかった。
そう、帰りたいのは上官殿や部下達ばかりではない。
俺だって帰りたい。帰りたくないわけがあるか。
家には結婚してまだ半年の可愛い妻が待っているのだ。
うっかり昼間見た上官殿の「家に帰ったらやりたいこと」リストを思い出し、ペンを握る手に力が籠もる。
軸をミシミシ言わせながら、無能な他部署の官僚達が提出してきた道理に合わない決算書類に容赦なく差し戻しの旨を明記していく。

「この戦場を乗り越えたら、絶対に俺も……」

どこぞの世界のフラグのようなことを呟きながら、俺もまた、脳内で「おうち時間でやりたいこと」リストを挙げ連ねていくのであった。





5/13/2023, 1:28:45 PM