「耳をすませば」/小説
僕はきわめて孤独で話し相手などいないから、いつも他人の会話を盗み聞きばかりしている。
たいていは下らない会話ばかりで、こんなばかどもと会話するくらいなら孤独を貫く方が良いと思えるほどだが、なかには興味深い会話をしている者もいる。
今まさに、そういった類いの会話を盗み聞きしている最中だ。
場所は電車の中で、連休ということもあり、ひどい混雑だ。下らない会話で埋め尽くされている電車の中で、一際異彩を放つ会話が僕の耳に入ってくる。男の声だ。
会話の内容は自殺についてであり、熱をこめて語っている。僕も自殺についてはよく思案するので、興味を惹かれずにはいられない。
僕は混雑した電車の中で会話している本人を探し出そうとするが、人が多いので困難だ。
奇妙なことに、会話は男一人だけの声しか聞こえず、話し相手の声は耳に入ってこない。相槌の声すら聞こえないのは、電車の喧騒のせいだろう。話し相手の声が聞こえないので、男が一人で、電車の乗客全員に向かって語りかけているように思える。
口調はますます熱を帯びてくる。最初は自殺について一般的なことを語っていたのが、今は切実に自分自身の問題として語っている。どうやら男は自殺志願者のようだ。
僕はますます興味を惹かれた。必死になって男を探そうとしたが、見つからない。
そうするうちに、目的の駅に着いた。目的の駅は、ターミナル駅なので、ほとんどの乗客はここで降りる。僕は会話をしている男もここで降りることを信じて、電車を降りた。
さいわいに、改札までの道中、男の声が途絶えることはなかった。男もここで降りたのだ。
改札を出てからも、声は途切れなかった。僕は男をなんとしても見つけようとしたが、見つからない。
会話はますます切羽詰まったものになっていた。男は自殺願望と生きる欲求とに激しく引き裂かれている。声が荒々しくなっている。ほとんどあえぐような声で、——死にたい、死にたい、と言っている。
僕はそこいら中を探しまわったが、男はいない。耳を澄まし、声の方向を探るが、くだらない会話の雑音が多くて、上手くいかない。声が途絶えることはないので、近くにいるはずなのに。
汗だくになりながら探しまわった。
ある時、男の声とはつまり自分が発している声に他ならないと気づいた。そう気づいたとき、僕はビルの屋上のはしに立って、はるか下の地面を見下ろしていた。
※フィクションです。
5/4/2024, 3:48:23 PM