さよならだけは言わないで。
どうかその言葉は、私に禍根を残すから。
さよならだけは、どうか言わないで。
あなただけを見ていた。
目が合った瞬間、別れの言葉が私の耳朶に響いた。
「さよなら」
ああ、やっぱり。
逝ってしまうんだ、彼は。
手を伸ばす。精一杯伸ばす。
そして、叫んだ言葉は。
「行くのね、私を置いて、そんな遠いところに?」
「ああ、行くともさ。僕が行かずして誰が行くって言うんだ?」
「なんでよ!?」
「義務感からさ」と彼は言った。
馬鹿だと、女は思った
そんな、馬鹿な話があるだろうか。
死にゆくのに、義務もへったくれもないではないか。
死ぬって言うことは、もう無くなってしまうということだ。
この世から、一片残らず。
だが、男は笑った。
「弟が残る! 俺の弟を大切にしてやってくれ!」
「縁起でもないことを!」
弟とは大体、口も聞かない仲だった。嫌いではなかったが、接点が薄いのだ。
彼の弟は、珍奇な性格をしていた。
鮮やかな服が好きで、髪の毛は茶髪で、いかにもヤンキーみたいな。
そんな弟に、何を託して逝こうというのか。
そうしてその弟は、きっとこの報告を受ければ、笑うだろうと、男だけが知っていた。
「三千万の小切手が、金庫に入っている。暗証番号は……!」
「待ちなさいよ、私一人にそんなこと!?」
12/3/2023, 10:48:58 AM