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『夏に死ぬ』

「夏が終わるね」
「……そうだね」
そう彼女に言われて初めて、今日が八月三十一日だということに気がついた。

こうやって太陽が出ていても、二週間前の肌が焼けるような暑さは無い。やかましい蝉はアスファルトの上に転がっている。ほんのりと爽やかな風が吹く。
「そうだね」
思わず同じ相槌が出る。
本当に、夏は終わってしまうようだった。
「嫌だなぁ」
彼女は空を仰ぐ。
「どうして?」
答えを待っているうちに、雲がゆっくりと太陽を覆う。あたりは少しだけ暗くなって、彼女はそれが悲しいのか顔を歪めた。
「私は、夏を越せないから」
夏を越す。
そんなの当たり前だと思った。
今日を超えて、明日を迎えたら九月一日だ。喚く蝉も、巨大な入道雲も、焦げたアスファルトも、風鈴も、蚊取り線香も、花火も。全てを淡い色の季節に閉じ込めて、僕たちは先へ行けるのだ、と。
彼女は残るつもりなのだろうか。そんな儚い思い出と一緒に、この季節に。
「死ぬの。この季節で」
まさか!と僕は彼女の顔を見る。
嘘をついているようには見えなかった。濁った空の色が、彼女の透明色の瞳を突き刺している。どこまでも真っ直ぐに。
「残らないんだよ。夏は」
彼女は空を見たまま呟く。
「喚く蝉は死ぬし、巨大な入道雲はバラバラになっていわし雲になるし、風鈴も、蚊取り線香も、花火も、青い袋に入れられて、もう私達の元には戻って来ないんだよ」
サンタクロースを信じ込んでいる子供に言い聞かせるように、でもそれにしては無感情な声で彼女は、
「そうやって、私も死ぬ」
こちらを見て笑った。
彼女の、あの真っ直ぐな瞳だけが全然笑っていない。ぬたりと生暖かい風が僕をなぜる。思わず腕をさする。鳥肌が立っていた。
「あなたも、死ぬ?」
彼女がこちらに手を差し伸べる。
僕はゆっくりと首を振った。
「そっか。残念」
雲が散り、再び太陽が顔を出す。
「行こう」
夏の太陽に照らされた彼女はあまりにも美しく、そして今にも消えてしまいそうな陽炎のように儚かった。

本当は彼女の手を取ろうと思った。
そのまま彼女と、夏に死にたいと思った。
けれど今ならはっきり『間違いだ』と言える。
彼女は、夏の記憶として死ぬのにあまりにも似つかわしく、それに対して僕は、こうして死ぬにはあまりにも不完全だった。

8/31/2023, 11:48:34 AM