鏡の森 short stories

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#023 『偽る鏡』

 遠い国への出立を間近に控えたある夜、人払いをした寝所に忍んできた者があった。
 驚きはしなかった。久しいことではあるが、彼女が城に暮らしていた頃にはよくあったことだから。
「帰りの馬車からこっそりと降りて、そこの茂みに隠れておりました。あぁ、疲れた」
「まあ。それでは、お腹も空いたでしょう」
 瓶入りの砂糖菓子を取り出して渡すと、侵入者は行儀悪く口笛を吹いた。直後に口元を抑え、周囲を見回す。誰も聞きつけた者はいないようだ。確信してから、二人は顔を見合わせて笑った。
 ひとつ年下の異母妹は、幼い頃から外見こそ瓜二つと言われて育ったが性格は真反対と言ってよかった。臆病で弱気な姫君と快活で奔放な元侍女。
「姫様」
 不意に真顔に戻ると、彼女は正面に膝をついた。
「月のない夜です。茂み伝いに通用門へ向かい、角を折れたところに馬車を待たせてあります」
 正面、やや下方から見つめる真摯な相貌は、まるで鏡に写った自分自身のよう━━有無を言わせぬ、その意志の強さを除けば。
「御者は我が家の子飼い、車室には従兄がおります。先日、あの衣装箱に動きやすい服を隠しておきました。さ」
 話を聞く間に涙が込み上げた。意図は改めて聞くまでもない。
「遠い国よ。渡ったら二度と帰ってこられない。共通の言葉もない。それに、八番目の妻と聞いたわ」
「構いません」
「お父様よりお年を召した、大変に怖い王様だと」
「なんの。姫様ならともかく、このわたしが負けるものですか」
 鏡から伸びたような腕に抱き止められる。聞き及んだ数々の噂話をいくつぶつけても、この鏡が割れてしまうことはない。
「その代わり、毎日のお茶の時間と砂糖菓子はなしですよ。それから、我が家にも多少の刺繍糸はありますが、触るなら必ず絡めて床に放り出しておくこと」
 冷静な声が指南する。
「それと、武術などどうせ男には敵わないのだから、不貞腐れてやめておしまいなさい。わたしは彼方の国で甘いお菓子や果物をたっぷりいただいて、うんと下手になった刺繍と縫い物で時間をつぶします」
 まともな返事をすることもできず、繰り返しうなずくだけが精一杯だった。
 手伝いを断り、不慣れな手つきで身軽な衣装に着替える。髪を下ろして緩く結い直し、手早く雑に巻き上げる方法を教えてもらう。
「わたしの母、従兄、身近な使用人だけがこのことを知っております」
 絹織の夜着に繊細な飾り紐を結び、入れ替わった偽姫は強い意志をたたえた瞳で異母姉を見つめた。
「お見送りはいたしません。どうぞお元気で」
 無言で見つめ合い、うなずき、無言のままに目を伏せて別れの印とする。
 足音を立てぬよう踏み出した通路は暗く、しかし広く長く遠くへとつながっていた。

お題/鏡
2023.08.19/こどー
久しぶりの執筆⭐︎

8/19/2023, 7:13:29 AM