もしも、未来の記憶が見られるのなら、貴方はどう思うだろうか。歓喜するだろうか?もしくは絶望...いや、予想どうりのつまらない未来だったりして。
しかし、その「記憶」は絶対的なのであろうか。私たちが進む道を変えることで、「記憶」に変化は起きるのだろうか。私はそう疑問に思った。
例えば、古代ギリシアの価値観では、人生は既に決まっており、偶然も一切無く、変えることは出来ない。しかし、唯一アポロン神の神託を授けられた時に限り、自身の人生を変える(選択)することが出来たという。
アポロン神の神託でも、有名なのはレオニダス一世の話だろう。彼はテルモピュライの戦いに出征する直前、アポロン神から神託を授かった。その内容は、
「お前が死ぬ」か「国が滅びるか」の二択であった。
その二択の中で、レオニダス一世は国の未来をとった。
レオニダス一世は自信がスパルタの王であるが故に、死なねばならないと、覚悟を決めたのである。そして、王は次の世代に国を、スパルタを託しテルモピュライの地で散った。
それを踏まえて私は、未来は転換期を迎えなければ変えることが出来ないと考えた。そして、未来の記憶を見ることは、自らの在り方を決定付ける恐ろしい行為そのものであるとも考えた。場合によっては、自らの死を直視することになるからだ。
だが、「未来に残す」には意義がある。例え自らが死ぬことになったとしても、先人は我々に何かを託した。ならば、私たちもそれに続こう。模索しながら、自らの一生を全うするのだ。
しかし、先人が残したものに比べれば、我々が残すものは微々たる量だろう。それは事実である。しかしながら、希望が無ければ進めない。何も残らない。
私たちは、一生彷徨い続けることになるかもしれない。転換期を見失い、挫折し、歩みを止めたくなるかもしれない。それでも私は、未来に私たちが、貴方が必要なのだと信じ続ける。
最後まで進み続けよう。未来を見続けよう。遠くで誰かが君を待っている。
了
2/12/2025, 1:48:19 PM