ひたすら何もない道を歩いて行くと、あちらこちらに『この先、楽園』という標識が掲げられていた。
枝分かれした道は一寸先も見通せないほど濃い霧に覆われており、道をたどってみないことにはその先が何であるかもわかりそうにもない。
楽園と書かれた文字以外は見つけることができず、どうやら楽園かそれ以外かで道が分岐しているようだ。
「上手い話には大抵裏があるんだよなあ」
その先が気にならないと言えば嘘になるが、幸か不幸か男は用心深く、おいそれと足を踏み入れるような性格ではなかった。
最初に楽園とは書かれていない道を選んで、上りだか下りだかわからない道をただ歩き続ける。次の分岐まで長く歩いたような気もするが、ふしぎと疲れや空腹などは感じられなかった。
しかし、何度目かの分岐から眠気が襲い始めるようになった。ぐらぐらと揺れる視界に抗えず、何度か気を失うように眠っていた。
この場所には時間を示すものなど何もない。太陽もなければ月もない。道以外は無なのである。
自分がどれくらい寝ていたのかわからないというのは、恐怖以外の何ものでもなく、男は目が覚めるたびに生きている実感が湧くまでその場でじっとしていた。次に目が覚めないことも考えられる、と一人顔を青くさせて。
精神を削られながらも黙々と歩いていく。
今日なのか昨日なのかそれとももっと前だったのか、またもや分岐が現れて項垂れる。
「もうたくさんだ!」
いい加減にしてくれ、と叫んだところで誰の声も返って来ないことはわかりきっている。しかし、声を出さずにいるのもそろそろ限界だった。この場所にきてどれくらいの時が経ったのか定かではないが、男にとっては永遠とも呼べるほどの長さがあった。
そんな時にふと過ぎる。『この先、楽園』と書かれた道に進んだのなら終わりが来るのだろうか、と。神経がすり減ると、楽な方へと、終わりの方へと思考が誘導されていく。
まるで詐欺の手口のようだと鼻で笑いながら、男は頭を振って楽園とは別の道を選んだ。
「おやまあ、なんと執念深い」
そんな男をみている者がいた。その人物は僧侶の格好をしており、男とも女とも取れる声を響かせる。僧侶は錫杖を時折シャンと鳴らしながら、ゆったりと歩みを進めていく。
「彼にはぜひとも我々の一門の戸を叩いて欲しいものですねえ。そうは思いませんか?」
虚空にそう柔らかな口調で尋ねる。待てど暮らせど返答はなく「私もまだまだですねえ」と一人つぶやいた。
僧侶の視界には無数の彷徨う人間の姿が見えていた。その中でも一際低い位置で歩いている話の渦中である一人の男が、仏の誘いを何度も無碍にしていた様子も当然ながら見えていた。
この場所は僧侶が俗世を捨てるための無限である。本来ならば、心を無にして仏に真摯に向かう時に現れる空間のはず。しかし、男は何かの拍子にここに間違って入り込んでしまったらしい。
極楽浄土へ誘おうとしていた仏の御心など知る由もない男は、最後まで頑なにその選択肢を取らなかった。
「惜しかったですね」
僧侶の声が楽しげに響いたものだから、僧侶の周りにはどこからともなくお金がばら撒かれた。
「このようなことでは私の心は動きませんよ」
この仏はやたらと人の心を試したがるきらいがある。これも試練の一つで、施しを喜ぶそぶりを見せたらまた最初の修行へと帰すつもりなのである。何十年もかけてようやくここまでたどり着いたのにひどいものだ。
その日、ひと月ほど意識不明の重体であった一人の男が病院の一室で目を覚ました。
【楽園】
4/30/2023, 2:57:02 PM