書く習慣:本日のお題「ないものねだり」
10年以上前に流行った構文だが、「〜したいだけの人生だった」という言い回しがある。まさにないものねだり。いきなり人生にまで言及するところがいかにもオタク特有の誇張表現という感じがして、親近感を覚える。
学生時代、後輩がよくこの言い回しを使っていたのを覚えている。ソシャゲのガチャで欲しいキャラを重複して引いて性能を引き上げたかったとか、楽単で有名な授業の抽選に当たりたかったとか、おしゃれなカフェが似合う人間になりたかったとか、恋人がほしかったとか。
前半は運が絡むからなんとも言えないが、後半の願望については巻き返しがきくのではないかと思った。しかしそんなだるいことを言う先輩にはなりたくなかったので、おしゃれカフェのくだりだけ同意を示した。
もっと英語がわかったら映画の原語版を楽しめたのになあとは常々思っているが、最近になってもっと堂々巡りのないものねだりを自覚した瞬間があった。
友人である。
大人になってから、全くの偶然で知り合った友人がいる。同世代ならではの共通点があり、学校で流行ったグッズや好きだった本や音楽などで盛り上がれる、貴重な存在だ。思考回路や物の見方が似ているし、違う部分があると面白く感じる。これまでの人生で一度も接点がなかった人と、同世代や趣味が似ているというだけでネタが通じるのは不思議な気分だった。
この友人が近所に住むクラスメイトだったら、と思う時がある。長い長い通学路を行き来するのも楽しいおしゃべりタイムになったことだろう。生垣でてんとう虫を捕まえて手指アスレチックをやったり(てんとう虫は高いところへ登っていきたがる)、野原でツヤツヤした数珠玉を採ってアウトドア手芸をしたり、お腹が空いたらグミの木から実を摘んだり。一人でも楽しく過ごせたが、もしも友人と一緒ならきっともっと面白かっただろう。
そこまで考えて、ふと我に返る。
大人になって知り合ったからお互いに面白がれているけれど、子どもの頃の自分の感性で果たして友人の面白さを理解できただろうか。そもそも、子どもの頃の自分はかなりのクソガキで、教室ではおとなしいがまともではない「静かなる変人奇人」の扱いだった。
子ども時代の私をリアタイされていたら、この友人とも今ほど仲良くなれていなかったかもしれない。
では、中学時代や高校時代の同じクラスや部活にこの友人がいたらどうだったか。
黒歴史生産期をリアタイされていたら、卒業と同時に私が逃げるように縁を切っていた可能性がある。大人になって、やばかったエピソードを自分なりに消化して話せるようになっているからこその現状なのだ。
ないものねだりはやめよう。
今を楽しく過ごすために、リアタイされたらやばい過去から面白かったことを集めてネタにする。現在の娯楽になるだけの人生は送れてきたのだから、自分はこれでよいのだ。
3/26/2026, 3:06:10 PM