そよ風に乗ってやってくる小鳥の囀りに紛れて、紙の上でペン先を滑らせる音がする。ペンは紙という舞台で、ワルツを踊っていた。
お相手は真っ白でしなやかな指。
「今日はどんな物語が見れるだろうね」
古くからの友人に語りかけるような呟きは、静寂を貫く空間の中へ消えていった。
アリスの気分は最悪だった。
折角の休日なのに、都までおつかいに行かなければならないなんて。いつもより重く感じる足を引きずりながら、都路を進んだ。
「これでおつかい完了っと。せっかく都に来たのになあ」
おつかいに来ただけで、他は何もしていない。
都というのは流行が行き交う場所だ。
都からの帰路でふと懐かしい記憶が蘇る。
退屈でたまらなくなったら、おばあちゃんのところへよく遊びに行った。こういうとき、おばあちゃんは決まって言った。
楽しいことを考えると、きっと楽しいことが訪れるし、悲しいことを考えると、きっと悲しいことが訪れる。
「今は面白いことに出会いたい気分だな」
そうと決まったアリスの行動は早い。
辺りを見渡しては普段と変わらない風景を自分の頭の中で非日常へと上書きしていく。波打つ道、歌う花、風のかけっこ。
意外にもこれが楽しくて妄想に夢中になってるうち、アリスはズンズン道を進んでいった。
気づいたときにはもう遅く、そこは知らない場所。
「ここどこ? もしかして迷子になっちゃった?」
もしかしなくてもそうだ。
店はズラリ、並んでいるけれど、賑やかさはなくて。
静かな通りに、風が吹き抜けていくのをアリスはただただ感じていた。
「今日はこの通りの店一体、休みです」
静寂を、ひとつの声が遮る。
澄んだ声、とはこのことだろうか。
アリスはひそかにそう思った。ゆっくりと、頭を回すと背中から右足までが一緒になって動く。
目の先にいた人は、フクロウのようにじっとこちらを見つめている。背丈が高く、スラリと長い足。
立てた襟が脇の方へ流れる服は遠い東の国を思わせた。
「あ、あの、私、面白いことないかなって考えてたら、こんなところへ来ちゃって」
波打つ道とか、歌う花とか。
アリスがそう付け加えると、その人は笑うことも怪訝に思うこともなく、「ああ」と頷く。
「心が導いてくれたんですね」
「心?」
「ええ。心と体は繋がっていますから」
休息にでも、どうぞ。
そう指差すのは、魔女の帽子のようなとんがった屋根のくせして、建物自体は小さな店。
スタスタと歩いていくので、アリスもそれに続いて店に足を踏み入れた。
壁際に本が並び、それ自体が柄のよう。
外から見るより、店内は広く思える。ただ不思議なことといえばそれくらいで、質朴としたつくりだ。
「どうぞ」
いつの間に。透明のカップの底に玉のようなものが沈んで、その上から熱湯が注がれている。
珍妙な飲み物にアリスが顔を引き攣らせていると、それを察してフクロウの人はカップを指差す。
「これはジャスミン茶です。花茶の一種で、茶葉が開く様を見て楽しむのですよ」
面白いでしょう? と問われれる。確かに面白い。
もしかするとこの人は「面白いこと」を見せるために、わざわざ用意してくれたのかもしれない。
そう思うと胸の辺りがポカポカ暖かくなる。
「ええと、フクロウさんはどんな仕事を?」
心の扉が開いて思わず口にした言葉にアリスはハッと顔を青くさせた。
自分の中で勝手につけたニックネームを言ってしまうのは、アリスの悪い癖だ。
不快に感じただろうか、と顔を上げるとフクロウさんは眉のひとつも動いていなかった。
「フクロウ。いいですね。素敵な愛称をいただきました」
心なしか顔が綻んだような気がする。フクロウさんは続けた。
「申し遅れました。私、記録者をしている者です」
これまた珍妙な仕事にアリスの頭上にはハテナマークがずっしり。
フクロウさん基記録者は一度席を立ち、カウンターから一冊の本を持ってきた。
それを渡され、ペラペラと捲ってみるがどのページもまっさら。
「この白紙の本に歴史を記すのが私の仕事です」
歴史というスケールの大きさにアリスは目を丸くした。
この人、そんなにすごい人だったのか。
「歴史といってもそんなに大きなものでなくていいんですよ。一日の何気ない出来事や、恋人たちの物語、ときには過ちを犯した者の懺悔を書き記すことも」
あなたの物語も、ぜひお聞きしたい。
これは記録者の欲望だろうか。
ひしひしと伝わってくる高揚感にアリスはNOと言えるはずもなく、差し出された手に自身の手を乗せた。
最初は何気ない話から始まった。
今日は母に頼まれて都までおつかいへ来たこと。
花茶を口に含んで、スッキリした後味を感じながら。
記録者は時折相槌を打って、熱心にペンを滑らす。
自分の趣味や、普段の学校生活、今はハマっているもの、流行っているもの。
アリスもだんだんと調子が乗ってきて、頭で考えていることが先回りして、口が追いつかないほどほど夢中になっていた。
「このくらいにしておきましょうか」
チラリ、記録者が窓の外を見た。空は朱色に色づきチラホラ人の影が見え始める。
「今日は祭りがあったんです。私は不参加でしたけど」
ああ、このことも書いておかないと。
呑気に独り言を呟く記録者だが、その反面アリスは本日二度目の青い顔をお披露目している。
「ヤバイ! ママに怒られる!!!」
鬼のような顔が頭に浮かんで、想像だけでぶるりと体が震える。
「では、お送りしましょう。詫びも兼ねて」
記録者はスッと立ち上がり、アリスの荷物を手に取った。人の流れに逆らって、二人は道を歩む。人が多くなり始めたところで、記録者はアリスに荷物を返した。
「さ、これを持って」
十字路のところでそっと背中を押され、その勢いで何歩か前に出た。
次、顔を挙げると、人混みはなくなり、さざめきが消え、見覚えのある道が続く。その先にあるのは、アリスの家。
振り返ると、都は山下に見え、ずっとずっと遠くにあった。
理解が追いつかずに佇んでいると、甲高い母の声が耳を貫く。
「コラ! どこ寄り道してたの!」
「ハイハイ、今いくから!」
あれは夢だったのだろうか。
ベッドに寝っ転がって、天井を見つめながら、昨日のことを思い出していた。
いや、花茶も飲んだ、会話もした、きっと現実だ。
でもそれを確信づけるものは、残っていない。
そのとき、ノックもせずにズカズカ部屋に母が入ってくる。
「ちょっと、これなあに? また余計なもの買ったの?」
どうして母というのは、いやな声、言い方をしてくるのだろうか。
物語に出てくるお母さんは皆優しいけれど、少なくともアリスの母は鬼のような人だ。
ムスッとした顔で起き上がると、母の手にある物にアリスは釘付けになった。
「ああーー!!!!」
「うるさい! 近所迷惑でしょ!」
母が持っていたのは、記録者に見せてもらった本だった。
やっぱり、あれは夢なんかじゃなかったんだ。
母から本を奪うように取ると、ページを一枚ずつ丁寧にめくっていく。
奇妙で、摩訶不思議なひとときの結晶をギュッと握りしめていた。
「本をあげていいのか。って?」
記録者は聞き返した。
窓の縁にちょこんと座り込んだ猫に向かって。
「素敵な本になったから、手放すのは惜しいけど……」
あの本を手にした彼女が先日の出来事を思い出してくれるのなら、喪失感なんてものはない。
そもそもあの本は記録者が“勝手に”書いたものなので、どうするも記録者の勝手である。
彼女は先日のことを夢として終わらせるのだろうか。
それでもいいか。
それを記録しても、きっと素敵なものが出来上がる。
2/27/2025, 9:55:43 AM