ローテーブルで夕食を済ませた後、私はグレーのカバーでくるんだソファーに体を投げ出した。まだ洗い物もやっていないから、寝落ちするわけにはいかない。それに片付けなきゃいけないミッションも残っている。
私はスマホを開いて物件探しのアプリを眺めはじめた。この部屋の更新をしないことに決めたのは、家賃の値上げを通告されたからだ。この部屋もこの街も気に入っていないわけではないけど、通勤にすこぶる便利ということもないので、家賃が上がるならそれほど固執することもない。ここより会社に近くて安い物件も探せばあるはずだ。
ここ数日、部屋探しを続けているが、思うような物件が出てこない。というより何かが頭に引っかかって集中できていない。私は首を動かしてこぢんまりとした部屋をぐるりと眺めた。
あの日、この部屋を見てカナデは「地味な部屋」と言った。他の人の……女の人の部屋なんて見たことがないから、どの程度地味なのかわからないけど、家具の趣味が女性っぽくないのは自覚している。カナデの部屋はもっと女の子っぽい色をしているんだろうか。
カナデと一緒に家具を選んだら、どんな部屋になるだろう。
不意に頭に浮かんだ“もしも”が思考を支配した。話をする時間が長いからだろうか。「わたしならこれがいい」とか「この色もナオに似合いそう」とか、言っているカナデの姿を想像してしまう。家具の絵は想像できてないんだけど。
今度会ったらカナデに聞いてみよう。住む部屋が決まったら、一緒に家具を見に行かないかって。
そのことを考えるとジムのことが頭に浮かぶ。カナデと出会ったトレーニングジム。やっぱり私は、あのジムに行くことを自分の生活の重要な一部だと思っているのだろうか。この街を離れることであのジムから離れることになるとわかっているから、部屋を選ぶことをためらっているんだろうか。
私は部屋探しを諦めて、先に洗い物をすることにした。ソファーから体を起こしてキッチンに向かう。家事は考え事とセットでするのに向いている。何かを考えながら家事をすると、いつの間にか終わっているからだ。
習慣化された行為は思考と切り離せる。単純作業を繰り返す工場に営業に行くと、仕事中なのにラジオがかかっているのと似ている。それに体が動いているとそれに合わせて思考もめぐるものだ。
私の中で、あのジムにいる時間が大切になったのはいつからだろう。筋トレ自体にそこまで興味がないのは最初もいまも変わらない。体力のため、健康維持のため。筋力がついて機具を持ち上げるのが楽しいのは事実だ。でもそれ以上に楽しいのは、隣にカナデがいるから__
あの日、引っ越すことを告げたときのカナデの顔を思い浮かべた。少し困ったように見えたのは、私の思い違いだろうか。
シンクのレバーを下げて水を止める。気づくと洗い物は終わっていた。私はその日、部屋探しを再開することはなかった。
4/4/2025, 2:46:03 AM