生きていると、まるで映画のワンシーンかのような、演出がかった場面に出会すことがある。
その日、わたしは祖父が横たわる棺を前に、それを感じていた。
菊を育てることに余生の意義を見出していた人だった。誰の提案かは知らないが、お別れのときに、白い菊で棺を満たす段取りとなっていた。
大量に用意された菊の頭を、親族一同で次々と祖父のからだに盛り付けていく。まず足元、そして膝上、お腹、胸の上で組まれた手のあたり。それまで顔も知らなかった親戚たちの、涙交じりの声が音として耳に入ってくる。
顔まわりは、同居していたわたしたちに任された。両手で掬った菊の花はまだ瑞々しく、溢れんばかりの花片からは、仄かに植物の青い匂いがした。雛鳥をおろすかのように、おそるおそる顔の横に花を添える。
わたしの手の甲が、祖父の頬にすこし触れた。
その瞬間、時が止まったかのように感じた。周りを取り囲む喪服の群れは、輪郭を失って混ざり合い、ただの黒い影となった。その中で、白一色に包まれた祖父だけが、ぼうっとした光の塊のように浮かび上がる。
祖父の頬は、すでに人間の感触ではなくなっていた。ウレタンか何かのようで、完全に無機質で、物質だった。その変容が本当に恐ろしく、わたしの中のなにかのスイッチに作用したのだと思う。
わたしは泣いていた。顔中の筋肉をぐしゃぐしゃに歪めて泣いていた。報せを受けたときも、病院で対面したときも、読経中も、ひとしずくさえ落ちる気配が無かったのに。横隔膜が痙攣を起こしたかのように、ひっきりなしにしゃくり上げ、喉を引き攣らせて泣いていた。その時まで、自分はいつ泣くのだろうかと、他人事のようにハンカチを持て余していたのに。ここだった。
同時に、その様を遠くのほうで見ている自分も存在していた。カメラのレンズ越しに、冷静に主演を捉えていた。その涙は決して演技などではなく、むしろ突然すぎる感情の発露に自身でも動揺していたほどだったが、そこから完全に切り離された自分が、その場には居たのだ。それはもうめちゃくちゃな感情だった。
あれからもう十数年と時は経ち、祖父の声も、写真に残っている以外の姿も、匂いも、今やもう確かなものではなくなってしまった。それなのに、ただただ、感触だけが、未だに残っている。左手の甲に感じる。ひんやりとした皮。
これはきっと、一生を共にする記憶だ。人生という物語の中の、ハイライトのひとつ。観客の心を揺さぶるために、丁寧に描写されたシーン。
それを誰が観るか、わたしは知らない。
「やわらかな光」
「忘れたくても忘れられない」
10/17/2024, 3:37:53 PM