『街へ』
「ねぇねぇ、今度どこかに行かない?」と君は言った。
「えーどこに?」と僕が答えた。
「うーん街かな」と君は答えた。
「ずいぶんあやふやだね」と僕は言った。
「でもそれが良いじゃない」と君は言った。
「それなら、いつ行くの?」と僕は聞いた。
「今すぐに」と君は笑って、玄関にある僕のコートを放り投げた。
こうして僕たちは、具体的な目的地を持たないまま、休日の午後へと放り出された。
駅までの道のりで、君は上機嫌に鼻歌を歌っていた。僕はといえば、財布とスマートフォン、それに家の鍵しか持っていないポケットの軽さが、少しだけ心許なかった。「街」という言葉の響きは、あまりに広大で、雲をつかむような話だ。
「とりあえず、一番最初に来た電車に乗ろうよ」
改札の前で君が提案した。それはまるでルーレットのような決め方だったけれど、不思議と悪い気はしなかった。滑り込んできた銀色の車両に乗り込み、吊り革に掴まる。窓の外を流れる景色が、住宅街からビル群へと変わっていくにつれて、車内の密度も少しずつ濃くなっていった。
「ねえ、あそこで降りてみよう」
君が指差したのは、聞いたことはあるけれど、一度も降りたことのない駅だった。
電車を降りると、そこは確かに「街」だった。
行き交う人々の話し声、信号機の電子音。僕たちは人波に逆らわないように、ただゆっくりと歩いた。目的がないから、急ぐ必要もない。ショーウィンドウに映る服を眺めたり、古びた書店のワゴンセールを冷やかしたり、ただ目についたものに反応するだけだ。
「あやふやなのも、悪くないね」
交差点の真ん中で、信号待ちをしている時に僕が言うと、君は「でしょ?」と得意げに笑った。
「目的があると、それ以外のものが見えなくなっちゃうから。今日は、街そのものが目的なの」
青信号が点滅を始める。走り出した拍子に、ふとショーウィンドウのガラスに目が留まった。
そこには、少し息を切らして走る、僕一人の姿だけが映っていた。
僕は足を止めた。
背後で信号が赤に変わる音がする。
振り返ると、そこには誰もいなかった。いや、最初から誰もいなかったのだ。
隣を歩いていたはずの「君」は、陽炎のように揺らぎ、僕の胸の奥へと吸い込まれていく。
「なんだ、そういうことか」
僕は小さく呟いた。
「街へ行きたい」と言ったのも、「あやふやでいい」と笑ったのも、すべては僕自身の中にあった、普段は押し殺している小さな渇望だった。
あまりに退屈な休日に、心が勝手に「君」という話し相手を作り出して、僕を外へと連れ出したのだ。
雑踏の中で、僕は一人だった。
けれど、不思議と孤独ではなかった。
ポケットの中のスマートフォンが震えることもなく、誰かとの約束もない。
ただ、僕の行きたい場所へ行き、僕の見たいものを見る。
「さて、次はどこへ行こうか」
僕は心の中の「君」に問いかける。
返事はもう聞こえなかったけれど、足は自然と、裏路地の喫茶店の方へと向いていた。
1/28/2026, 3:19:37 PM