汀月透子

Open App

〈日の出〉

 午前五時半、僕はいつものように玄関で靴紐を結んでいた。
 正月三が日も過ぎ、街は少しずつ日常を取り戻し始めている。

 階段を降りてくる音がする。母が起きてきたらしい。

「起こしちゃった?」
「んー、休みも終わるから、起きる時間も戻さないとね」

 母はそう言って、新聞を取りに外に出る。開けたドアから冷気が忍び寄る。

「お正月なのによく続くね」
「走らないと、一日のリズムが崩れる気がするから。行ってきます」
「道、凍ってるかもしれないから気をつけてね」
 背中越しにその声を聞き、外へ出た。

 夜明け前、吐く息が白くほどける中を、僕は一人で走っている。

 高校では陸上部で中距離を走っていた。
 県大会には出られたけれど、全国なんて夢のまた夢。それでも走ることは好きだったし、仲間と一緒に過ごす時間も楽しかった。

 大学に入って、陸上部の見学に行った。
 そこにいたのは、セレクションを受けて入部するような、インターハイ出場者や、全国レベルの記録を持つ人たち。僕とは、能力差がありすぎた。
 挑む前に身を引いた、と言えば聞こえはいいが、実際は怖かったのだと思う。大学ではどの部にも入っていない。
 それでも、毎日のランニングだけは欠かさなかった。

 いつものコース。明け切らない空は群青から薄紫へと移ろい、建物も木々も輪郭だけを残したシルエットになって浮かぶ。
 高校時代から見慣れた景色だけど、この季節、この時間帯が好きだ。

 ずっと同じ道を走っているから、顔見知りも多い。早朝のコンビニの店長さん、犬を散歩させる人たち。中でも、休憩する公園で会うおじさんとは、時々陸上の話をする。

 今日も、飼い犬のポテコを連れたおじさんがベンチのそばにいた。
 一万メートルの選手だったというおじさんとは、マラソンや駅伝大会の話をするのが当たり前になっていた。

「昨日の駅伝、五区の山登りがおもしろかったな」
「あのランナー、すごすぎですよ」

 ポテコが撫でてほしそうに僕の足にまとわりつく。頭を撫でると、尻尾が忙しなく揺れた。
 しばらく駅伝話に花が咲いたあと、おじさんがぽつりと言った。

「……兄さん、マラソンはやらんのかい?」

 前に、大学で陸上部に入らなかった理由を話した。記録の差、空気の違い、自分の居場所のなさ。その時は「そうかぁ」と言ってたけど。

「市民マラソンなら、自分のペースで走れる。
 向いていると思うんだがな」

 考え込む僕を見て、おじさんは慌てて手を振る。

「いや、無理ならいいんだ。
 でも、目標を持って走るのも、悪くないかなと」
 杖を持つおじさんの手に力が入る。
「俺はもう走れないけど、兄さんが走ってるのを見ると元気が出るから」

 その言葉に返事ができないまま、空の端がゆっくりと明るんでいく。
 日の出だ。さっきまで影だった景色に、少しずつ色が差す。公園の木々に色がつき、ポテコの毛並みも金色を帯びた。

「……考えてみます」

 頭を下げ、ポテコをもう一度なでてから走り出す。

 帰り道は、太陽を背にして走る。徐々に強くなる光が、背中を押してくれる気がした。

『市民マラソンか』と、胸の中でさっきの言葉を反芻する。
 五キロ、十キロ、ハーフ。どこまで走れるかは分からない。でも、走り続ける理由なら、もう十分に持っている。

 家に着いたら、少し調べてみようか。
 日の光に背中を預けながら、僕はペースを崩さず走り続けた。

──────

ああ。正月休みが終わってしまう……

地元の市民マラソン、ケーブルテレビが中継してて優勝インタビューも流れるのですが。
明らかにレベルが違う走りの人で、調べたら数年前に駅伝の全国大会に出ていた方でした。
就職して競技から引退しても、走ることが好きなんだなぁとしみじみ。

作中の「ポテコ」、少し太めのコーギーみたいなミックス犬を想定しています。

1/4/2026, 2:38:07 AM