香草

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「見知らぬ街」

なんとなく空気が懐かしい気がする。
電車のカビ臭さと何かのシャンプーの香りが混ざったようなそんな匂い。
この空気を嗅ぎながら1時間揺られ続けるのは当時低血圧だった俺にはかなり苦行だった。
「次は〇〇駅、○○駅」
気怠そうな鼻がかなり詰まってそうな車掌の声も相変わらずだ。
不思議なもんだ。俺が大学を卒業し、街を出てから10年以上経っているはずなのに、空気も車掌の声も変わっていないなんて。
懐かしさを覚えると共に嬉しくなってくる。
全てを知っていることに対する安心感からだろうか。
自分が合わせなくても空気がこちらの身に合わせてくれるからだろうか。
少なくとも2、3年住んだはずなのにいまだに慣れない東京の街にいるときより心が軽やかだ。

俺が学生時代住んでいた街は小さな駅と大きな商店街があった。
生まれた時から大学生までずっとこの商店街を通って駅に行き、隣町や県外の学校に通ったり遊びに行ったりしていた。
当時からずっとシャッターが並んでいて営業している店なんてほとんどないほど廃れた商店街だったが、俺が生まれるよりずっと昔にはかなり栄えていた街らしい。
少し暗い通りを子どもたちがわあわあと騒ぎながら駆けていくのが当たり前で廃れたといっても活気はあった。
シャッターの落書きも年々増えていって俺の記憶が正しければカラフルな商店街だったように思う。
しかし駅に降り立った途端何かがおかしいと気づいた。
改札を出ると目の前に真鍮のガラスドアが大きく開かれており、そこから煌びやかなシャンデリアが覗いている。
あれ、ここから商店街が続いてたはず…。
キンキンに冷えた空気が吹いてきてつい足が進む。

中に入ると明るい照明を受けてキラキラと輝くアクセサリー屋さんが迎える。
そして少し歩けば若い人がよく行くコーヒーショップ、ファストフード店が並ぶ。そしてそれらの向かいにはシンプルで上質そうな日用品で人気の店がある。
アクセサリーの向こうにはエスカレーターがある。
え、ここはどこ…?商店街はどこ…?
俺は見知らぬ街に迷い込んだかのようにフラフラと彷徨った。
とりあえず外に出たら何か分かるはずだ、と出口を探すがどこにも見当たらない。
降りる駅を間違えたのか?いやでも改札までは見覚えがあった。
俺はまるで浦島太郎になってしまった気分だった。
後ほど母に事情を聞くと俺が街を出てから間も無くして商店街の再開発が始まったらしい。
シャッター街になってもう20年ほど経っていたから反対する者もほとんどいなかったそうだ。
そこで市は商店街の跡地にデパートを誘致したのだ。
元々栄えていた街で住人も多く、交通の便も悪くない。話題性があれば客には困らない絶好の立地だ。
そういう背景で俺が育った商店街は姿を消したらしい。

母たちもデパートができたことを喜んでいるようで毎日デパ地下のお惣菜が食卓に上る。
日用品も娯楽も全て揃うのですごく便利になったそうだ。
帰省してから何度かデパートに行ったが確かに若年層をターゲットにした店が並んでいて街への新しい住人の流入を目標にしているのが分かる。
しかし改札から見える景色にはまだ慣れない。
薄暗く赤やら青やらカラフルなスプレーで彩られたシャッターがないのはかなり違和感だ。
20年間過ごしてよく知っている地元のはずなのに全く知らない街みたいだ。
どこかそわそわして落ち着かない。
心にポッカリと穴が空いて俺をよく知る友達を失ったような実家を失ったようなそんな感覚だ。
あのワンワンと響き渡る通りもシャッターももう無いのだ。
俺の成長をずっと見守ってきたシャッターはもう無いのだ。
俺の記憶の中にしかもう無いのだ。
そう考えるとなんだか虚しくて東京の街が恋しくなった。

8/24/2025, 1:20:37 PM