「いい子にして待っていてね」
そう言い残して、母はこの家を後にした
いつもはベージュというよりは肌色の、グレーというよりは鼠色の地味な服ばかりを着る母が、その日は珊瑚色の、サーモンピンクの華やかなワンピースを着ていた
元々顔の造りは美しい人だったが、普段は化粧をすることなく長い髪も後ろで無造作に結ぶだけだった
それがその日は、薄く化粧を施し軽く巻かれた髪が母の美しさをより華やかにさせていた
その時まだ幼かった私でさえドキドキするような母の美しさに、驚きと憧れの気持ちが込み上げた
と同時に、知ってはいけない、見てはいけなかった母の美しいだけではない生々しい女の艶やかさを見てしまったことに胸騒ぎも感じた
サーモンピンクが妙に私の心に焼き付いた
母はその日以来私の前から姿を消した
あの胸騒ぎは的中していたのだ
「そこに沢山ドレスがあるでしょ
取りあえず好きなの選んで着てみて
それ着て今日1日働いてみてよ
それで貴女を気に入ったら採用するわ」
と、その店のママは言った
私は23歳になっていた
色々な街を転々としながら、この北の地に流れ着いた
そしてその街でまあまあ流行っていそうなクラブにやって来たのだ
「じゃあ、このサーモンピンクのドレスをお借りします」
再婚した父の元で人形のように暮らしながら、何とか高校は卒業し、かつて母とも暮らした街を逃げるように出た
母から受け継いだ容姿のお陰で、その手の店では即採用され、生活にはあまり困らなかった
自分が思う以上に私には男を惹き付ける力があるらしく、一生援助させて欲しいと申し出る男も一人や二人ではなかった
そんな男達の間を行ったり来たり、成り行きに身を委ねることも少なくなかった
けれど、どれだけ高価な贈り物も、恥ずかしささえ覚えるような甘い言葉も何一つ私の心を満たすことはない
それまでのどんな時でも自分を支えていたのは、あの日最後となった母の美しいサーモンピンクのワンピース姿だった
以来、同じ色の洋服の女性を見る度、母では?と胸が高鳴り
後を追い掛けてしまったこともある
自分が女になり、同じ色のワンピースを着ると鏡の中にいるのはまるで「母」だった
だから、私はどこの店へ行っても必ずこの色のドレスを選ぶ
当時の母と同じ様な美しさを放つ私の姿が、何かの形で母の知るところとなりはしないか…
運命の糸を繋げてはくれないだろうか…と
一縷の望みをかけて、私はサーモンピンクに身を包んで各地を転々としているのだ
母がこの世に存在しているかすら分からないのに…
サーモンピンク
この色は私にとって、憧れであり、憎しみであり、執着であり、命を燃やす源であり、愛して止まない色なのだ
あの日、すべてを捨てる覚悟をした母にとっも特別な色であったに違いない
もし、今の私を母が見たらどんな顔をするだろう
その一心でここまで生きて来た
唯一私と母とを繋ぐこの色が、私をいつかきっと母の元へ導いてくれる…
そう信じて私は今日もこのサーモンピンクを纏い続ける
『好きな色』
6/22/2024, 4:57:29 AM