余・白

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「白をすくう夜の影」





あの日は確か記録的な猛暑で、記憶の中の君は前髪をおでこに張り付けていたように思う。
「暑いね」
困まり笑顔で指を絡めてくる君が愛しい。
汗で湿った僕の指は君と幸福を捉えていた。


あの夏、君は首吊り自殺をした。


あの選択をした君を、僕は未だ責められずにいる。
「どうして何も言ってくれなかったの?」「何があった?」「僕は君を救うことができた?」「幸せな時間もあった?」
答えの出ない問いは黒く固まり、僕の奥底へと沈殿する。それはいつしか「適応障害」という名前を持ち、僕に絡みついた。電車に乗ることも、仕事に行くことも、食べることも起き上がることもままならない日々。「君を救えなかった天罰か」真っ白な天井の下、呟いた。

なぜ君は居なくならなくてはいけなかったのか?
何度夏が巡っても知ることの出来ないこの答えを、僕は永遠に探し続けるだろう。



あの夏、君は首吊り自殺をした。




先に好きになったのは、僕だと思う。
「私があなたを見つけたのよ」と、どこか含みと憂いを帯びた笑顔で君はよく言っていた。天真爛漫で裏表がなく、人の為に生きる人。まっすぐな瞳と言葉で、人を捉えて癒す人。孤独や不幸を語ることはなく、しかし透けるように滲む不安定さを持ちあわせる人。僕にはその全てが心地よく、その温度と君に、まるであの日の牛乳バーのようにどろどろと溶けて依存していった。

「この人だと思ったの」
僕らが恋人になった、夏の夜。
生まれて初めて好きになった人が恋人になった。嘘じゃないかと何度も確認をする僕に、「私も同じことを思っているよ」と目を伏せめがちにして笑う君。淡く染まった頬と、そこを流れる汗。合わない視線、溶けた牛乳バー、その全てが狂おしいほどに愛おしく、君の為ならこの身を焦しても構わないと思った夜。

初めて手を繋いだ感動、未だに忘れることのできない細い指。仕事と飲み会で疲れ切った君はいつもより言葉選びが鋭く、けれどもやはり穏やかであった。ほっぺたを膨らませながら文句を言い、ふらふらとした足取りで「疲れたのぉー」と叫ぶ。「支えなきゃね」と僕が腕を組むと、「そうじゃ無いでしょ」と僕の手とり、指を絡ませてきた。スルンとした君の手は冷えていて、異様に熱い僕の手のひらと相性が良い。こんなにも臆病で鈍感な僕には君しかいない、そう思った夜。


一緒に映画を見た日、君は静かに泣いていた。
見られないようにと外を向き泣く君が愛らしい。僕がまるで気づいていない素振りをしていると「あれだね、感動系だね」と君は平静を装いながら言った。こんなにもあまのじゃくの君は僕が守らなくては、そう思った夜。


「平和だね」会うたびに君が言っていた口癖も、
「ぎゅー」と言いながら抱きついてくる癖も、忘れていくどころか輪郭の濃さは増すばかりで、僕の首元を締め付ける。あの日々のどこに黒い影が隠れていたのか?何ひとつ見つけられない僕は、やはり臆病で鈍感なのかもしれない。君が笑えば僕も笑い、君が泣けば僕も泣いた。-喜びは二倍に悲しさは半分に-なんてくだらない妄言も、君にかかれば真実と化し、僕に生きる意味と希望を与え続けた。君という存在の明るさと眩しさに目がくらみ、君の影を見落としたのか?この苦しみは、見たいものだけを見続けた僕の罰なのだろう。

「帰る?」
いつも帰りたがらない君が、まだ明るい時間に放ったあの一言。
「帰るか」僕はそうつぶやき、足早に帰ったように思う。あの日の君の表情の記憶がない、君への興味が薄れていた証拠だ。君の影を見つけ出す鍵が、そこにはあったはずなのに。

「じゃあね」
最期に聞いた君の一言、じゃあねの言葉はやけに明るく切ない気がした。多少の違和感を覚えた僕は、けれどもそのまま手を振った。あの言葉が、何度も脳内を反芻し僕の呼吸をおかしくする。
なぜ引き止めなかったのか、なぜ大丈夫?と聞かなかったのか。いつもよりギュッと紡いだ唇で、本当は何を言いたかったのか?想像力も優しさもない。君を大切にすることのできなかった、僕の愚かさと僕の罪。

あの夜、君は首吊り自殺をした。


甘い甘い思い出が嘘のようにその全てが壊れる時は一瞬で、待っていたのは今までの幸福の何倍も長い地獄の影だった。居なくなってから知った君の病気も、家庭の事情も、もっと早くに知らなければならなかったように思う。あの時の僕の躊躇が君を殺したのか?何かの感情を押し殺す君の表情を、僕は何度か見たことがある。見ないふりをした僕の心が君を殺したに違いない。君の心の奥の部屋に入るには勇気が足りず、やはり僕は愚かで臆病な人間であった。君の声も温度も、二度とこの身に触れることはない。

君の選んだ世界は綺麗だろうか。もう、苦しんではいないだろうか。あの日「帰る?」と言った君の手を取っていたら、何かを変えることができたのだろうか。発した言葉も行動も、全てに後悔の渦が巻き、生きているだけで罪悪に苛まれる日々。
いつもより少し温度の低い君の声に寄り添うべきだった。僕が放った「帰るか」は、君の心に諦めを生んだのだと後になって気がついた。
過去に戻れば救えるのだろうか、それとも臆病で鈍感な僕には救えないのだろうか。人を愛するには、幼過ぎたのだろうか。


君はこの結末で幸せになったのか?
心の底では生きることを諦めたくはなかったのか?



立ちすくむ僕の右手のひらに、いつかの君の冷たい指先が触れた気がしたけれど、それは夏の終わりを告げる秋風だった。
君を失ったあの夏からどのくらい時間が経ったのだろう。この呪いは一生僕を捉えてくれるだろうか?今度こそ君を離さないから、どうかこのまま僕を苦しめ続けてはくれないだろうか。
君の美しさと僕の臆病さを掬い取ってくれと、傲慢にも秋風にそう願った夜。

7/24/2025, 12:29:41 PM