川柳えむ

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「……誰?」
 君は僕を怪訝そうな顔で見て、一言そう漏らした。
「はじめまして」
 だから、僕はそう言った。
 君を怖がらせないように、優しい声色で。

 君が記憶喪失になったことは聞いていた。
 階段から足を滑らせ、頭を打ったらしい。
 思わず血の気が引いたが、命に別状はないと知り、安堵した。同時に、記憶喪失だということも聞かされたわけだが。

 本当の僕らは恋人同士だった。
 でも、記憶がない状態で「恋人だ」なんて言われても。逆に警戒心を持たれてしまうかもしれない。
 だから僕は決めたんだ。
 君と0から始めようって。そうしてまた、いつか君と一緒にいたい。

 そんな思いで、君と日々を過ごした。
 最初は僕に対して心を閉ざしていた君も、少しずつ笑い掛けてくれるようになった。
「あなたが恋人だったら良いのに」
 そうしていつしか、僕にそんなことを言ってくれるようになっていた。僕は「うん」とはにかみながら笑った。

 大変なこともたくさんあったけど、僕らはまた恋人に戻った。

 ――あぁ、良かった。
 君が記憶喪失になってくれて。
「別れたい」と言った君と口論になり、揉み合い、そうして階段から落ちてしまったことを忘れてくれて。
 これでまた一緒にいられるね。


『はじめまして』

4/1/2025, 11:02:21 PM