お題:視線の先には
「何を見ているのですか」
ノックをして扉をあけたこちらには目もくれず、あなたは窓の外ばかり。熱心ではなく、ただぼんやりと。返事もなかった。
「月か、星か、きれいですか」
窓辺に近づいて、目に入ったカレンダーと外を見て、しまった、と思った。街明りのせいで星なんて見えやしないし、ましてや今日は新月だった。
「空を眺めているだけさ」
お隣に住む老夫婦との付き合いは長く、毎朝あいさつを交わしていた。私の引っ越しが決まったとき「寂しくなるなぁ。元気でな」「たまには遊びに来てね。行ってらっしゃい」と夫妻揃って見送ってくれた。数年ぶりに帰ったとき、せっかくだからとお隣のインターホンを押した。「あらあらまあまあ。元気にしてた?」と懐かしい声を聞いて心が暖かくなった。それから軽く世間話をして「ご主人は?」と問いかける。ハッとした顔をして「ああ、そうね、そうよね」と懐かしむ顔をした。「遠いところへ行ってしまわれたわ」。目を細めて空へと視線を向けていた。悠々と広がる青と雲。
思い出した。
「青空が気持ちいいですね」
そう言った返事が
「……そうか、そうだな」
だったから。
「何を見ていたのですか」
5秒か10秒か、もう少し長かったかもしれない。さわさわと草の間を風が通り抜け、しん、と静まり返るまで。
「空を」
あなたの視線の先には空なんかなくて、きっと、ずっと遠い場所で。
「君は――」
そんなにそこへ行きたいのかい。
「どうかしたのか」
「……いいえ、何でもありません」
「そうか……私は今、とても幸せだと感じているよ」
「私だって、ええ、それは……」
「光栄だよ」
さくり、さくりと進む道。あなたは穏やかな顔をして「幸せだ」と言うのだから、尚更質が悪いと思う。あなたの視線の先が、せめて、この広大な空へと向いてくれたらと願うのは、出過ぎた真似だろうか。
7/19/2023, 11:16:41 AM