梨
梨は、きらいだ。
甘ったるくて、なんか口もかゆくなるし。
私は、どうしても好きになれなかった。
でも、あの人は梨が好きだったな。
「ラ・フランス」とかなんとか言って、意外と種類があるんだよーって。あくびを噛みながら退屈そうな私を置いて、ずっと梨の魅力をきらきらと語っていたっけ。
自分の作った品種を、世界の人に食べてもらうのが夢だとか彼は言って。
その時は、たあいもない、ささいな日常の会話だと聞き流していたっけ。
――私が、彼と出会ったのは、ほんのささいな偶然だった。
ある、蒸し暑い夏の日の暮れ。
自転車で、バイト先からの帰り道。
うっかり側溝にはまり、チェーンが壊れ、途方に暮れていた私を助けてくれたのが彼だった。
近くの農家の一人息子だったらしく、そこはいつも通る道だったそうだ。
大丈夫ですか、と声をかけてくれた時の、あの屈託も下心もない子供のような瞳は、今でもときおり思い出す。
私が、彼のことを好きになるのに、時間はいらなかった。
色んな場所に行こう。おいしいものを食べにいこう。
そんなささやかな約束が増えるたび、彼との未来はきっと幸せなものになるのだと。私は、彼の優しさに寄り添う甘い時間につかり、夢の中で過ごしていた。
夢が覚めるのはいつも唐突だ。
夜。病院からの電話。
彼が事故に遭った、という一報だった。
猫を追いかけて道路に飛び出した子供を助けて、トラックに跳ねられたという。
――子供は助かったが、彼は即死だった。彼は、最後までやさしい人だった。
でも、あの人は私を置いてきぼりにして、先にいってしまった。
一つも果たせなかったささいな約束と、すこしの思い出を残して。
私は、梨がきらいだ。
匂いも、甘さも、かゆさも。夢のような、ささやかな日常が確かにあったことを。
ずっと先にあったかもしれない、幸せな未来を。
あの人の笑顔を。あの人のやさしい声を。どうしても思い出してしまうから。
私は、最後の一口を口に入れ、ろくに噛まずに飲み込んだ。
それでも、やはり口のなかには、甘さとかゆさが暫くのあいだ、しつこく残り続けていた。
やはり、梨は好きになれそうにない。
だって、こんなに悲しい味のする果物なんて、他にしらないから。
10/15/2025, 4:19:54 AM