〈お題:やさしくしないで〉
信頼と信用をされると私は内心怖気付く。
身の程知らずな自分がそこにいて、期待に応えられない未来に苦しむ。
そんな確かな可能性に取り憑かれる。
失敗を肯定されると内心軽くなる。
期待されてなかったという思い込みが微かに生まれるからだ。天邪鬼な心に励ましの言葉は重い。
認識の甘さを痛感する。
私の無知が招いた結果である。本を読み漁る。
いわゆる乱読者である私の頭の中には本の内容はほとんど残っていない。言葉の意味を邪推するばかりか、その邪推を正解としてしまう脳内に辟易する。
優しさに甘えてばかりの精神から灰汁が滲み出る。そんな感覚が喉元に込み上げる。嗚咽。
「言葉を覚えた乳児に等しいと、そんな評価を」この腐った発言もまた灰汁の一つ。
なんたる不遇。その不遇を愚痴れば、多少なりとも同情を得られる。しかし、優しさが不遇を不遇たらしめる。辛い事を肯定される。
「そうだね、辛かったね」
「頑張ってきたんだね」
優しさが肯定である限り、私は癒えない。
なんと悲しき性だろう。
「えぇ、辛かったんです」
「とても頑張ってきました。もう限界です」
理性が必死に辛いと感情に訴えている。心は対して辛くはないのに。
さして何が辛いのか。
どんな事をどれ程の期間、何処まで頑張ったのか。具体的な言葉を用いず感情を肯定される。
それが心地よいのだから困ったものだ。
頑張ったフリをしても、辛いフリをしてみれば
こうして、信用と信頼を嘘で塗り固めることができるんだ。
メッキは光に当てられると剥がれる。
辛い事を面に引きずりだされるのを恐れるのは、抱えた苦痛が「程度の低いさして問題にならない…その程度のささくれのようなもの」。世間はささくれで済まないような大怪我で溢れているから、大袈裟に騒ぐ私に愛想を尽かしてしまうのではないか。そんな不安がついには大きな問題として心にズッシリとのしかかる。
僅かに求めた確かな「心の問題」に今度こそ私は全力で縋れる。
今度こそ私は癒えるのだ。
「とても辛いです」
2/4/2025, 3:42:22 AM