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心だけ、逃避行

――君は、あの娘が好きだったんだね。

恋なんてくだらないもの、一生する気なんてなかった。
僕はただ、精進することが好きだったし、道のためならすべてを捨てるべきだと信じていたから。
だから、恋を肯定する君のことを、どこか可哀想で、馬鹿だなって思っていた。

――それなのに。
今の僕は、恋をしているらしい。
ありえない。本当に、ありえないはずだった。
なのに、君を見るたびに胸が高鳴って、苦しくなる。

「君が好きだ」と言えたら、どんなに楽だっただろう。
もし君と思いが通じ合ったなら、どれほど嬉しかっただろう。

切ない恋を打ち明けたあの日、
君は、僕があの娘を好きなんだと勘違いした。
かつて恋を馬鹿にした僕の言葉を、そっくりそのまま返されたとき――さすがに堪えたよ。

ほんとに、僕はバカだ。
すべてを捧げると決めた「道」があったはずなのに、
君を愛してしまった。

このままじゃ、君への想いが「道」を狂わせる。
その前に、覚悟を決めなければならないと思った。

――君が、あの娘と結婚すると聞いたのは、それから二日後のこと。
奥さんからその話を聞かされたとき、驚くほど冷静だった自分にびっくりした。

けれど。
君とあの娘が目で合図を送りあっていたり、
誰にも見えない場所で会っていたりするのを見るたびに、
僕の心だけが、少しずつ死んでいくのがわかった。

作り笑いが得意になっていった。
嘘をつくのが、上手になっていった。

――恋って、こんなに辛いものだったんだね。

もう、逃げてしまおう。
でもその前に――
せめて君の心に、消えない傷を残していきたい。
君の、たったひとつの傷跡になりたい。

だから今日、僕は覚悟を決めた。
君は今、眠っている。
名前を呼んでも、もう目を覚まさなかった。

さよなら。
愛していました。

7/11/2025, 3:04:59 PM