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ずっとこのまま


とあるところに少女がいました。少女はチクタクと鳴る部屋から飛び出して、自由になりたいと思っていました。
あるとき、その部屋を訪ねてきた年老いた男性は鍵をかけるのを忘れてその部屋から出ていきました。少女はチャンスだと思い、足早にその部屋から飛び出して、遠い遠いところへと逃げました。もう二度と見つからないように、ただひたすらに逃げました。
逃げた先で少女はたくさんのあたたかさに触れました。へとへとに疲れて、倒れそうになったところを恰幅のいい女性に拾われて、その女性のところにお邪魔しました。温かくて美味しいご飯にふかふかのベッド。あのチクタクと鳴る部屋よりも何倍も何十倍もあたたかくて優しかったのです。
近所の子どもたちは新しくやってきた少女に興味津々でした。少女は色んなことに疎かったのですが、そんなことを気にする人はおらず、ただただ少女に優しく教えてくれる人たちばかりでした。
そこで暮らすうちに、少女はあの部屋に帰りたくない、と心底思いました。
チクタクと鳴るあの部屋に、一人では寂しくて。少女の心には、もうあの部屋に戻る気は一切ありませんでした。たとえ、あの部屋が少女のいるべき場所で、そこにいることが、そこですべきことが少女の義務であり、生きる意味であったとしても。
少女は願いました。ずっとここにいたい。ずっとみんなと一緒にいたい。ずっとこのまま、時が止まってしまえばいいのに。
そう、少女は願いました。それは少女がもっとも願ってはいけない願いごとでした。しかし、そんなことはまるで関係ないと言わんばかりに、世界は時を刻むのをやめました。
時計の針は止まり、それと同時に人々の成長をも止まってしまいました。誰一人として年を取ることなく、まるで不老不死のように。
しかし、誰も時が止まっていることには気づいていませんでした。壊れた時計はすべて燃やされ、人々は時が進まないまま何年も何十年も何百年も、数えるのすらも嫌になるくらい、長い長い間生きていました。
そして、少女はここに来る前のことを忘れてしまいました。あのチクタクと鳴る部屋のことも、自分自身が本当は何者だったのかも。すべて忘れて、この世界の住民だと信じてしまうほどに。

ある日、少女の元に一人の青年がやってきました。青年は少女に向かって言いました。
「なぜ、こんなことを……」
「なんのこと?」
少女が尋ねると青年は悲しそうに顔を歪めました。
「なぜ、時を止めてしまったのですか」
「え?」
「自分が誰なのか、本当に忘れてしまったのですか」
「……?」
ああ、と嘆く青年に少女は困りました。一体彼は何の話をしているのだろう、と。誰かと勘違いをしていないか、と問おうとして口を開いたその時でした。
「クロノス」
青年の口から飛び出してきたそれを聞いて、少女はようやく思い出しました。
かつて、少女はクロノスと呼ばれていました。時を司る神として、世界の時間が、人々の時が正しく刻むように、あのチクタクと鳴る部屋でそれらを管理しながら、時を過ごしていました。
最初はやりがいもあって、少女は時を管理するのが好きでした。しかし、いつしかつまらなくなり、あの部屋から逃げ出したいと思うようになってしまったのです。
あの日、時の部屋から逃げ出した日、少女はまだ自分が誰なのかわかっていました。遠くへと逃げてきたこの場所に着いたその時もまだ覚えていました。
しかし、願ってしまったあの日、ずっとこのままを願い、無意識に時の神としてこの世界の時を止めてしまったあの日から数えきれないほどの年月は少女が自分が何者なのかすらも忘れさせてしまったのです。
そうして、すべてを思い出した少女は、いえ、時の神クロノスは自分がしてしまった愚かな行為に泣き崩れました。
今さらすべてもう遅いことは誰よりもクロノスがよくわかっていました。時を再び刻んだところで、その時が蓄積していた分が一気に進むのです。少女が愛した世界は一瞬のうちに時が進み、人々は老い、その命を終えて誰一人として生き残ることはないでしょう。
建物などは錆びて、壊れて、自然にかえっていくことでしょう。
かといって、時をこのまま止めておくことはクロノスにはできませんでした。時を正しく刻むことが時の神として与えられた義務であり、生きる意味だったのです。
すべてを理解して、クロノスは泣き叫びました。痛々しささえあるその鳴き声に青年も涙を流していました。きっと青年もこうなることを知っていたのでしょう。それでも、青年は伝えなければならなかったのです。唯一この世界で気づいてしまった青年だったからこそ、この間違いを正すため、愛した人たちをずっとこのまま縛りつけておくことは青年にはできませんでした。終わりが来ないことが何よりも恐ろしいとわかってしまったから。
青年はそっとクロノスに近づき、その手を握りました。涙でぐしゃぐしゃな顔で見つめ合い、眠るように目を閉じました。
クロノスは泣きながら、この世界の時を進めました。クロノスが泣き続ける中、青年の手は一瞬のうちにシワだらけになり、やがて骨になってしまいました。
世界にはクロノスしか残りませんでした。愛した人たちはみんな正しく時を刻み、その時を終えました。
クロノスは愛した世界に名残惜しそうにしながらも、あのチクタクと鳴る部屋に戻りました。
時の部屋に時を司る神クロノスが戻ったその時、ようやく世界は正しい時を刻み始めました。

1/12/2023, 2:15:38 PM