とある恋人たちの日常。

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「落ち着いて聞くんだ」
 
 ほんの少し前まで救急隊の仲間たちとふざけ合っていた中、先輩に呼び出される。そして神妙な面持ちで俺に前置きをした。
 
 そして、先輩の口が動いて耳に入る。恋人が事故に巻き込まれ非常に危険な状態だという言葉。
  
 俺は目を見開いた。
 先輩の放つ言葉に、俺の耳は先輩の声を遮断する。
 視界は揺らぎ、色が失われる。
 背中から悪寒と、内側から小さく震えが襲う。
 
 上手く思考することも出来ない。
 
「おい、聞いているのか!?」
 
 先輩ががしりと俺の肩を掴んでいた身体を揺らした。
 そこで俺は現実に引き戻される。
 
「危険な状態ではあるけれど、彼女次第なんだ! そんな顔をしてどうする!?」
 
 喝を入れてくれる先輩に、俺はハッとした。
 
 そうだ。
 彼女は……まだ生きているんだ。
 失われたわけじゃない。
 
 違う。
 俺は彼女を失いたくない。ほんの数分前に自分が体感した喪失感を現実にしたくない。
 彼女にも、生きる気力を無くさせたりしない。
 
 彼女を失いたくないから、俺の心に火が灯る。俺は俺に出来ることをしよう。
 
「先輩。俺、彼女のそばに行きます」
「治療はするなよ」
「分かっています」
 
 恋人として同棲していても、籍を入れていなければ他人なんだ。
 それでも、彼女は誰よりも近い人だから、俺は彼女の診断や治療は行えない。
 
 それでも、俺に出来ることをしよう。
 
 ――
 
 そして、改めて考えることがあった。
 
 俺自身、危険な仕事をしている。
 実際に俺だって死にかけたことがある。あの時、彼女もこの喪失感を味わったのだと思うと余計に胸が苦しくなる。
 
 俺は左手の薬指を見つめた。
 
「真剣に考えなきゃな……」
 
 
 
おわり
 
 
 
一一七、喪失感

9/10/2024, 1:42:20 PM