『ゆずの香り』
「言ってくれれば取ったのに。」
カウンターに並んで座った彼女の右腕が視界を覆い、ナプキンを口に押し当てながら言う。
「いつも誰がその服を洗濯してるか知ってる?」
青年は肩をすくめながら目の前の空のどんぶりに目を落とす。お椀に残るネギを数えているようで数えていない。見えているようで見ていない。
「最近は仕事もかなり落ち着いてきたから、少しずつ家事を手伝ってみるよ。」
「手伝う?」
「えっ。」
青年は自分で撒いた地雷の存在に気づけなかった。手伝う程度ではいけないのだろうか。半分くらいは手伝うと豪語してみるべきだったか。
「そういうところだよ。」
「ごめん。」
「私が何言ってるか全然わかってないでしょう。」
青年の頭にはどろどろと固まったタールが離れず、もはや八方塞がりといった様子で何も考えられなくなっている。
「一旦出ようか。」
彼女の一言でラーメン屋を後にする。
普段から仲の良いカップルだと自負はあったが、こういった些細な諍いは後をたたない。青年にはきっかけも過ちもちんぷんかんぷんだったが、とにかく謝ることで切り抜けてきたつもりだった。そうしておけばその場はまた温もりを取り戻すからだ。
「お米付いてるよ。」
背伸びした彼女の右手が口元に届く。
「お腹いっぱいになった?もうちょっとゆっくり食べなね。」
さっきまでの試験官のような目付きとは打って変わって、爽やかな香りが頬を掠める。
12/23/2024, 9:37:56 AM