氷室凛

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 1,2年くらい前に、ツアーでヨーロッパに行ったことがある。1,2年前、なんて言っても、この世界の時間の進みがもとの世界と同じなのか甚だあやしいものだけど。
 そのツアーの合間、私はあちこち街を観光していた。そのあたりは香水瓶が有名で──大通りに面した立派なショーウィンドウも、路地の奥の小さな露天も、どの店もところ狭しと硝子の小瓶を並べていて、歩くたびに小さな光のかけらがキラキラと目に飛び込んできたのをよく覚えている。


 そして、いま。
 もとの世界で歌姫と呼ばれていた私はライブ中に倒れ、目が覚めると異世界、もといあの世とこの世の狭間にいた。元の世界へ帰るため自らを魔法雑貨店の店長と呼ぶ青年とともに、隠された「心」とそれを開けるための「鍵」を探す旅に出た私。

 数々の困難を乗り越え進み続けた私たちの目の前に現れたのは──、ずらりと香水瓶の陳列された棚だった。

 いつから迷い込んでいたのかはわからない。この棚の終わりも見えない。
 置かれた小瓶はどれも微妙にデザインが違っていて、きっとひとつとして同じものはないのだろう。そんな瓶の並んだ棚が両側に広がり、ひたすらに一本道になっている。

「なにこれ。瓶? 中身は入っていないみたいだね」
「──これ。これしかない」

 話しながら瓶を手に取る店長さんの後ろで、私は目の前にみっちりと並ぶ小瓶からひとつを手に取った。途端に他の小瓶は揺らめいて棚ごと消える。
 店長さんが振り返る。

「早かったね。ま、決めるのはきみだ。きみがそれだと思うなら、僕から言うことはなにもないよ」

 私は確信を持って頷いた。

 丸っこいフォルムの瓶に、中心にはめられた深い深い青の石。それを囲むような繊細で美しい金細工。
 間違いない、あのツアーの時に一目惚れして買った香水瓶だ。

 買った、って言っても、これは単にお金を支払ってこの香水瓶を手に入れた、なんて簡単なものじゃない。
 あのとき路地の奥の小さなお店に入った私は、レジ横に置いてあったこの香水瓶に引き寄せられた。どのお店のどの小瓶もとっても素敵だったけれど、これはひときわ目を引いた。
 私はすぐさま財布を取り出した。その小瓶には値段が書いていなかったけれど、なにせ私は世界ツアーを敢行するくらいの歌姫だ。お金で買えないものなど存在しないのだ。

 通訳の人に値段を聞いてもらい、ドヤ顔で札束を叩きつけようとして──私は叩きつけるはずだった札束で扇をつくることになった。
 困った困った。どうやらこの香水瓶、売り物ではないらしい。いまは亡き先代が作った最高傑作で、記念として飾っているけれどいくら大枚はたかれたって売る気はないらしい。札束の扇をチラチラとあおいでみたけれど、どうやら店主の気が変わることはなさそうだ。

 通訳さんと店主さんの押し問答をしばらく眺め、私はある提案をした。
 私は世界を股にかける歌姫だ。いまここで歌うから、感動したらその香水瓶を譲ってくれないか、と。

 店主のおじいさんはそれを承諾し、私は歌い──そして手に入れたのがこの香水瓶なのだ。

「へえ。きみ、本当に歌姫だったんだ」
「疑ってたんですか!?」
「日頃のきみの口の悪さを見てるとね。歌姫って言ったらもっと清楚でおしとやかなのを想像するだろ」

 うるさいなこのポンコツ店長は。あの香水瓶屋さんのおじいさんを見習ってほしいもんだ。

 私の歌を聴いたおじいさんは感動し涙し、この香水瓶だけでなく他の瓶も好きなのを好きなだけ持っていっていいと言ってくれた。死ぬ前にあんたの歌を聴けてよかった、この瓶を通してきっと先代もあんたの歌を聴いたはずだと、何度も何度も繰り返し言ってくれた。

 ……むかし、歌い始めの頃はそういうこともあった。私の歌で目の前の誰かが感動して泣いて、そのまま握手をしたり抱き合ったりするようなこと。
 けれど徐々に会場が大きくなり、ステージの段差が高くなり……世界で歌うころには、いくらライブをしたって観客の顔はもう遠く見えなくなっていた。

 ──だから、そういうのは本当に久しぶりで。
 しまいには私たちだけでなく近所の人も出てきて、みんなで泣いて笑って、ちょっとしたお祭り騒ぎだった。

 持って帰ったら綺麗な宝石のカケラでも詰めようと思っていたけれど、結局ずっと空にしてある。

 透明な瓶を透かしたら、あのおじいさんの顔がまた見えてくる気がするから。




20240830.NO.38.「香水」

8/30/2024, 12:51:58 PM