1年後
1年後というのは遠い未来だった。地球があとそれだけで滅びると明らかになってもなお。
地球滅亡のニュースは、突如全世界同時に告げられた。最初は誰もが信じなかったことだろう。しかし、各種メディアで寸分違わず同じ文言で、淡々と地球滅亡の事実のみが報道されていることを確認して、なお冗談として受け取るのは困難だったに違いない。それからの展開は意外なものだった。映画で見る世界のように、街はたちまち混沌と化すのかと思いきや、不思議とのどかな日々が続いた。自暴自棄になった暴走トラックが歩道に突っ込んだ事件が1件あったきりで、特に派手なニュースもなかった。人々は意外にも利口だった。
余命宣告を受けたのは滅亡宣告のすぐ後だった。残り時間は3ヶ月。地球の最期を見届けるには少し足りなかった。しかし、以前までの常識に照らし合わせると、見られないのが普通ではあった。
世界の終わりにパンを焼くのが夢だった。古い歌が好きな友人が、よくカラオケで歌っていた曲に、そういうフレーズがあった。そのフレーズは不思議と耳に馴染んで、時折思い出すとはそういう最期を思い描いた。待ち焦がれる相手はいないから、私は自分のためにパンを焼いた。はじめて焼いたパンは、やや焦げていて美味しかった。
時の経過に沿って、街は緩やかに静かになった。わざわざラッシュ時に電車に乗らなくなったし、約束を守るために走る人も減った。急ごうが急ぐまいが、終わりの近づく速度は等しく同じなのだ。
病院はいつもどおり賑やかだった。
採血をしたり心電図をとったりと、院内を巡り巡って、最初の科に戻ってくると、待ち合いのソファには誰もいなかった。私が午前の診察最後の患者だった。
名前が呼ばれて診察室に入ると、かかりつけの年配の医師がいつもどおりの柔和な笑顔で座っていた。決まりきった手順に沿って、粛々と診察は進行した。医師がパソコンに何やら入力する合間に、私は雑談しようと思い訊いた。
「終末はどう過ごされるんですか」
巷で流行りのフレーズだった。
「そうですね、おそらく病院で働いているでしょう」
「ご家族と過ごされたりはしないんですか」
「家内と娘は死んでしまいましたから」
すみません、と慌てて謝る私に、医師はこちらを向いて首を振った。
「地球滅亡のニュースがあって、3日後くらいでしたかね。歩道に突っ込んできたトラックにはねられて、そのまま亡くなりました」
ニュースでちらりと見た事故現場の光景がオーバーラップした。ブルーシートやひしゃげた車体が、脳裏で急に生々しく色づいた。
「訃報を知った時は頭が真っ白になって、自棄を起こしそうにもなりましたが、どうせ1年後には全部ぱあになるのですから。最後の最後まで胸を張れる生き方をして、あの世で家内と娘に叱られないようにしなくてはと思い直しました」
医師はパソコンに向き直り入力を再開すると、脇にあるプリンターから出てきた紙を取って、ファイルに仕舞い込んだ。
「この病院のある限りは責任持って担当しますから、安心なさってください」
医師は目尻に深く皺を寄せ、深みのある声でそう言った。
病院を出て、私は近所の公園のベンチに腰掛けた。梅雨の時期にはまれな天気のいい日だった。大勢の子供達が遊んでいた。あちこち走り回って叫んだり、遊具の頂上を競い合ったりして、騒がしい。これだけ元気に暴れ回っているのに、1年もしないうちに成長が頭打ちになるのかと思うと、残酷で気の毒な感じがした。子供達の頭上には桜の木があった。思えば地球滅亡のニュースが駆け巡ったあの頃、あちこちで桜が満開に咲いていた。桜とともに散れるなら、この土地に住む人々の最期はいくらかましかもしれない。そうか、あの桜は私にとって最後の桜だったのか。
暖かな日差しの中で、私はだんだん眠くなった。うつらうつらしながら、明日の朝に焼くパンの匂いを想像した。
2024/06/25
6/25/2024, 8:04:10 AM