落ちてゆく
「分かっていたわ、あなたが苦労知らずで生きて来たこと。聞いてれば分かる」場末のスナック「Lilly」のママはその着飾って澄ました顔の女性客に言った。
「じゃなかった人生も五番街に仕舞っておく密やかな想い出も過ちもないようね、だから裁いて断罪出来る、知ってたわよ言わなくても、言葉の節々に出てるもの、本当は知らないことが怖いだけ、与えられたものの中でぬくぬくと生きて来た、けどそれって、それはそれで悪いことじゃないわよ、悪いのは、ぬくぬくと誰かの思いに乗っかって乳母日傘で生きてきただけのくせに分かったような気になって、独善的に裁くところ、まあ、それが何も辛苦を知らない苦労知らずが透けて見えるところなんだけど、だったら人を裁きなさんなって、あんたの正解や正義で」
まあ、一杯いかがという風にボトルの口をあけながらママは続けた。「人間あっちこっちぶつけてたら傷が出来て、そこから腐れてくることだってあるって日本一有名な先生も仰ってたし、人は悲しみが多いほど人に優しく出来るらしいわよ、優しくありたいなら、いっぱい間違うことだと思う、いっぱい間違うといっぱい解決方が見つかって、正解を導き出す方法はひとつじゃないんだと知る事が出来るし、間違った人を理解することも出来るようになるから、共感でも同情でも許すでもなく理解することが出来る…」
「幸せは自慢できる事だけど苦労知らずは自慢にならない、覚えておくと良いかもね(笑)」
場末のスナックのママは、カラオケのマイクを差し出しながらそう言って笑った。
曲がはじまった…。
「時の過ぎゆくままに」 作詞 阿久悠
あなたは、すっかり疲れてしまい
愛することさえ 嫌だと泣いた
壊れたピアノで 想い出の歌
片手でひいては ため息ついた
時の過ぎゆくままに この身をまかせ
男と女が 漂いながら
落ちてゆくのも 幸せだよと
二人つめたい からだ合わせる
からだの傷なら 治せるけれど
心のいたでは 癒せはしない
小指に食い込む 指輪を見つめ
あなたは 昔を思って泣いた
時の過ぎゆくままに この身をまかせ
男と女が 漂いながら
もしも二人が 愛せるならば
窓の景色も かわってゆくだろう…
落ちてゆくのも 幸せならば
窓の景色も かわってゆくだろう…
「この歌の二人は優しさを知っていて幸せも知ることが出来て、好い人たちよね」とママは言って拍手をした。中年の客は気持ち良さそうにマイクを置きグラスを空けて 「ママ、おかわり」と言った、午前零時の小さなスナック。
落ちてゆくのも幸せだろう…。
令和6年11月23日
心幸
11/23/2024, 12:55:25 PM