結城斗永

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 夏と冬の間に、色を持った季節があったことを、もう誰も覚えていなかった。

 二十一世紀の半ばから、世界は夏と冬だけになった。二十二世紀が迫るころには宇宙規模の変革により、地球を取り巻く環境は一気に不安定になった。
 それでも世界は安定を求め、人類は叡智によって気候を制御し、夏と冬を維持しようとした。
 夏は今日で最後を迎える。そして明日には極寒の冬が訪れる。

 僕は絵画修復技師として、博物館に収められた古い風景画の修復に携わっていた。
 今、目の前にあるのは二十世紀の終わりに描かれた「晩夏の庭園」と題された絵画だった。かつては強い彩度を放っていたであろう緑の芝生は枯れたように色褪せ、白い日傘は強い日差しに焼かれて黄ばんでいた。
 僕はパレットに絞り出された純色の絵の具を、そのままキャンバスに塗り重ねていく。

 数時間ののち、間もなく修復も終わろうという頃だ。
 誰もいないはずの地下のライブラリから物音がした。不思議に思って降りていくと、本棚から一冊の詩集が転げ落ちていた。
 『Fall』
 シンプルな表紙を開くと、そこには見たこともない言葉が連なっていた――。
 「紅に燃える森」
 「群青の空」
 「金色の穂波」
 紡がれた言葉の一つ一つが、脳裏にありもしない風景を想起させる。赤い葉が風に舞い、星を宿した空が群青へと変わっていく。涼しく乾いた風が黄金の稲穂を揺らしながら、心の奥を吹き抜けていく。

――この風景を描かなければ。

 そう思った瞬間、修復していた夏の風景が、白い余白のように物足りなく見えた。
 僕は再び筆を取り、ためらうことなく、夏の庭園の上に赤を置いた。パレットの上で鮮やかな純色が混ざり合い、生まれた橙や茶が芝生に広がっていく。日傘の黄ばみは輪郭を持って落葉となり、金の穂波が画面の奥からせり上がってくる。

 それはもはや修復ではなく、上塗りだった。けれど僕の手は止まらなかった。
 まるであの詩集に導かれるように、知らぬはずの『Fall』を確信をもって描いていく。

 ふと窓の外にどこからか一枚の葉が舞い落ちた。この都市には存在しないはずの、赤い楓の葉だった。僕は息を呑み、筆を握り直した。

 筆を進めるごとに、外の世界が揺らいでいく。
 街の木々はキャンバスと響き合うように色を変え、そこから金色の葉がこぼれ落ちる。
 子どもたちはキャッキャと声を上げて葉を追いかけ、老女は哀愁のまなざしで空を見上げた。
 制御されているはずの夏の湿った風は、次第にカラリとした涼しさをまとい、人々の頬を撫でていく。
 群衆は戸惑いながらもその心地よさに立ち尽くした。

 僕はキャンバスの空に最後の星を描き込んだ。すると、都市の空は澄んだ群青に変わり、瞬く星を宿しはじめた。

 明日、冬に切り替わるはずだった世界は異なる色を持った。遠い昔に忘れられた夏と冬の間にある季節が再び姿をあらわす。

 すべてを描き終えた僕は筆を置き、絵を見つめながら確信する。
 ――これは間違いなく『秋』という季節だ。
 秋の色が人々の心に深く染み込んでいく。それはこれからやってくる極寒を和らげるような、柔らかく静かな余韻をもたらしていた。

#秋色

9/19/2025, 4:16:03 PM