薄墨

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ぐにゃりと脱力した彼が地面に落ちている。
鼓膜をつんざくほどの周囲の音が、遥か遠くに聞こえた。

ここが、大地が剥き出しの、寒々とした荒野だったのは、もう前のこと。
かつて何百万人の血を吸った大地であった面影はすっかり消え、今や背の低い緑の芝や、鳥が運んだものか、美しい花をつける背の高い草が自由気ままに生えそろっている。

かつての戦場の爪痕を、その地中に抱えているために、人を寄せ付けないこの場所は、むしろ人が開発してきた街々の大地に比べたら、すっかり健全の、美しい自然を取り戻しているように見える。

私がここに勤めるようになったのはなんでことはない。
人間の身勝手な開発と、少子高齢化は国家の秩序を揺るがすということで、子を産むことをどの国も推奨した結果に起こった爆発的な人口増加に対する埋め合わせをするため、戦争の末に放り出されたこの大地を、農地として使えるようにする必要が出てきた、そのために雇われた、というだけだった。

当時の私は、オブラートに口触りの良い言葉で包まれたそんな社会の言い分を、まるで正義であるかのように信奉し、掲げ、人類を救うのは自分だ、という若さゆえの傲慢な一心で、この地を浄化する職についた。

来てすぐに後悔した。
現場の誰も、この仕事に希望など抱いていなかった。
大地が人類の戦争とまぐわい孕んだ、地雷、という過去の遺児を探し出して除去するというこの仕事は、どっちを向いても危険と理不尽しかないような、そんな仕事場だった。
過去の人類の愚かな行為のツケ、そして過去現在の人間社会が犯したの失態のツケを、一身に背負わされ、命を賭けて償わさせられている。

地雷撤去とはそういう仕事だった。

そんな危険と理不尽に塗れた職場では、心理的に余裕のある人間などいなかった。
みな、平和なはずのこの世界の片隅で、怯え、恐れながら一日を過ごし、人間に絶望し、世界を恨みながら、なけなしの正義心や善心を捨てられず、それゆえに明日も仕事に出向く。
すっかり恐怖と卑屈に濁った瞳に、なけなしの光を湛えながら生きていく。
私たちはそういう人間だった。

しかし、彼はその中でも、珍しく鮮やかな光を湛えた瞳をしていた。
彼はかなりの時間をここで過ごしていたはずだった。
にもかかわらず、彼は人間に絶望していなかった。
そして、世界にも絶望していなかった。
彼は、私たちの中で唯一、政府から来た者の仕事も、地元民の仕事も、私たちの仕事も、公平に信頼していて、一つの疑念もなく、私たちの報告を受け、優しく指導し、従った。

彼は人の善良性を信じていた。
彼は人に絶望していなかった。
彼は人の倫理観を信じていた。

私はそうはなれなかった。
世間の平和から弾き出され、普通の人たちが見たくないもののように目を瞑る、そんな私たちの状態で、いったいどの境地にいればそうなれたというのだろう。
しかし、彼はそうだった。
彼は、人間の愚かさを背負わせられながら、それでも、人間に夢を見ていた。

眩しかった。
愚かだと思った。
バカだと思った。
ふざけるな、と思ったし、何度か彼に、そんな言葉をぶつけた。

しかし、それ以上に、私は彼が眩しかった。
人を信じているがゆえのその誠実な笑顔が羨ましかった。
人を信じているがゆえのその優しい眼差しが、美しいと思った。

私は。
私は彼を慕っていた。
愚かだ、バカだ、おめでたい頭だ。
そう思いながら、同時に、私は彼に惹かれていた、きっと。

今日、彼は私の目の前に倒れている。
それは外部から来たとある職員の、小さなミスだった。
しかし、ここではそれは、裏切り同然だった。

愚かなことに、人を信じず、恨みと懐疑心を持つことで、生き抜いてきた私は、この裏切りに最後まで気づかなかった。
しかし、皮肉なことに、人を信じきっていた彼が、気づいた。
彼は、私がその裏切りを踏み抜く直前でそれに気づき、そして、
気がつけば、彼は、私の代わりに、彼の半身を吹き飛ばされていた。

私は彼を慕っていた。
散々、彼は愚かだと態度に表し、憤慨し、蔑み、憎み、眩しいがために鬱陶しいと口では言いながら。
私は彼を慕っていた。
その証拠に、あの一瞬、あの、彼が私を迷うことなく助けてくれたあの瞬間に、私の胸は大きく、ひとつ、弾んだ。

この想いはもう二度と彼に届くことはない。
ぐにゃり、と、物質に変わり果てた彼の身体と、私に刻まれた今までの経験は、私に確信させる。

この想いは、もう届かない。
今、私が抱えているこの想いは、この何とも言えない気持ちは、もう彼には届かない。

もう、届かない。
私の、私の初恋は、自覚したこの瞬間に、届かぬ想いに成り果てた。

私は彼を見つめる。
慕っていた、もう体温を持つことのない彼を。

ぐにゃり、と脱力した彼が落ちている。
鮮やかな緑に包まれて、平和なような顔をした戦場に。

4/16/2026, 8:57:49 AM