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何て会話をしたのだっけ、あゝ。私また、取り溢してしまった。あんなに忘れるまいとしたのに。

―――『俺のようになるなよ』と告げて、確か入水自殺をしたのだっけ。其れは近くの川だったかしら、海だったかしら、さては湖だったやもしれず。

私それを、話としてしか知り得なかったわ。虚偽も真相も妄想も、この身の前では作り話で、等しく総て無に同じだったわ。

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『家族を遺して死んだ男がいたのだ』と、とある人間が海を見て、渇いた薄ら笑みを引っ提げ私に、ああも垂々と零していかねば、私は彼が嘗て生きてたことすら、こうして既に死んだことすら、知らないままだったことでしょう。

睫毛を撫でる潮風がこそばゆく、青空に散る飛蚊が煩わしく、話を聞いたのは初夏のことで、そんなことを聞いても、どうも凄惨さも憶えぬまま、死を捉えられもしないまま、人間の発する声によって、只々近場の空気の揺れるのを、この鼓膜で受け止めていただけだったわけであるからして、。

然し、まるで惜しくも無いかのように、まるで己の行く路の先達の背を見るように、その人間が、余りに判った口振りをして、彼の死んだのを話すから、私はまるで、ジサツを宣言されているかのような気になって…………。

…………はて? ところで、彼は『家族を遺して死んだ』のだったね。だけどそれは、思い違いではなかったか?慥か、『愛想を尽かされた』のではなかったか。あり、それは首を吊って死んだとかいう、これまた別の男だっけ。確か、寒い秋の雨降る墓地に、BOSSの缶コーヒーを供えに行った筈であるから…、アア。

いけない。これ以上、喪ってはしまってはいけない。

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―――誰も探さなくなった頃、彼は一人で冷たい水を呑んで見つかったのだね、実際、水に呑まれたのは彼だったのだね。

ええ、ええ。それを話したあの人間、私に何かを独り言ちたのに。それに大変胸を打たれたから、私は知りもしない物語に、酷く切なくなったのに。

3/12/2023, 4:46:57 AM