真岡 入雲

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【お題:胸の鼓動 20240908】

大きく息を吸い込んで、肺の底から全ての空気を体外に吐き出す。
それを3回繰り返して、克己は閉じていた瞼を上げた。

目の前に広がるのは、遠くにある水平線と綿菓子のような雲、そして宇宙へと続いている紺碧の空。
海を渡る風が海面の煌めきを変化させ、己の存在を克己に訴えているようでもある。

『大丈夫。ボクにだってできる』

ドクドクと早鐘を打つ胸の鼓動は耳の鼓膜を通さずに、直接脳に伝わってくる。

『大丈夫。怖くない』

早くしろ、口だけか、これだから東京もんは、弱虫、意気地なし。
様々な罵倒の言葉の中から、1つのか細い声を克己の耳は拾い上げた。

「克己くん、頑張って」

母の田舎に来たのは今回が初めてで、母は近所に住む自分の幼馴染の子供を克己の遊び相手として連れてきた。
その子は克己と同い年の女の子で、親切丁寧に近所の案内をしてくれた。

都会育ちの克己には、見るもの全てが新鮮だった。
海の青さも、雲の白さも、山や畑の緑も都会には無いものだった。

克己が知る海は、くすんだ緑で濁っていて、ぷかぷかとゴミや消えない泡が浮いている。
雲は多分白いが、空は狭く、今克己の目の前に広がる空の1/100にも満たない広さなのではないだろうか。
山は電車で1時間以上かけて行かなければならないし、家の近くにあるのは人の手で作られた、人工の緑ばかり。
だから、克己は物凄く楽しかったし、もっとたくさん色々な事を知りたいと思った。
ただそれだけだったのだが、彼女が克己と一緒にいるのが地元の子供達は気に食わなかったようだ。

彼女はこの辺りの子供達の『アイドル』的存在らしい。
確かに可愛いし、親切だし、一緒にいると楽しい。
出会ったのは2日前で、それほど長い時間一緒にいたわけではないけれど、話しの仕方から頭のキレる子なのだろうとは思っていた。
一言で言えば、人を惹きつける何かが、彼女にはあった。

「早くしろよ、いつまで待たせるんだよ!」

克己より、恐らく二つか三つ上の少々恰幅の良い男児が苛立った声をあげる。
それに合わせ、小さく息を飲む音が聞こえた。

『女の子を怖がらせるなよ、これだから田舎者は』

克己の周りには彼のように大声を張り上げて、人を脅すような友人はいない。
皆穏やかで、人を罵倒したり、悪し様に言うようなことはしない。
あくまでも、人前では、ということになるのかもしれないが、それが克己の育った環境での『常識』でもあった。

すぅぅ⋯⋯⋯⋯

肺いっぱいに空気を吸い込んで、息を止める。
彼女から教えてもらった通り、全力で走り思いっきり大地を蹴って空中に飛び出した。

刹那の浮遊感。

何にも縛られることなく、この世界に投げ出されたような、寂しさと、切なさ、恐怖、そして今まで味わったことのない解放感。
目の前に広がるのは手付かずの自然、どこまでも続く海と空、それと独特な潮の香り。

そして、視界に映る景色は急速に流れ始め、様々な青という蒼の中に体が飲み込まれた。

足元からの衝撃と、全身を包む圧迫感。
360°海水に包まれた大小様々な空気が、我先にと海面へ昇っていく様子を克己は静かに眺めていた。

『いい克己、海はプールと違うの。波があって流れもある。岸壁は岩がゴツゴツして下手すれば怪我だってする。だから、無闇に飛び込んだりしないのよ?』

無闇に飛び込んだ訳じゃない。
地元の子供達は、よくここで飛び込んで遊んでいると言っていた。
だから、ある程度の安全は保証されている。
ちょっと失敗だったのは、水着ではなくTシャツと短パンで飛び込んだこと。
パンツまでぐしょぐしょに濡れてしまい、少し気持ち悪いのは内緒だ。
あ、でもサンダルはきちんと脱いで崖の上に揃えて置いて来たから、きっと大丈夫。
あれ、そう言えば、どうやってあそこまで戻るんだろう?

取り敢えず克己は、肺の空気によって体がゆっくりと海面に向かうに任せた。
海の中から見る太陽は、地上で見るほどのギラつきはなく、波と共にゆらりゆらりと揺れている。

多分あの辺⋯⋯かな?

海中から自分が飛び降りただろう崖の方を見ると、何やら黒い点が3つ4つ蠢いているのがわかった。
左右に揺れたり、上下に動いたり、はっきりと見えないのがもどかしくて克己は両手で水を搔いた。
海面に顔を出し、古い肺の空気を吐き出して新鮮な酸素を体内に取り込む。
全身の細胞が活性化するようなこの瞬間が 克己は好きだった。

「克己くん!」

声の聞こえた方、克己が飛び込んだ崖の上を見るとそこには、彼女と克己に野次を飛ばしていた地元の子供達が顔を覗かせていた。
浮いてきた克己の姿を確認した彼女は、すくりと立ち上がると右手側へ走って行く。
他の子供達はバツが悪そうに、互いに顔を見合せて何か話している。
ただ、克己にとってそんなのはどうでも良く、このえも言われぬ爽快感を、全身で享受していたかった。

両手両足を広げ、波間にぷかぷかと漂う。
東京近郊の海には入りたいと思わなかったが、同じ太平洋でもここの海は別だ。
波に揺られ、ただ浮いているだけなのに、こんなにも楽しいと思えるのは何故なのか。
目に映るのは蒼い空と徐々に高さを増していく積乱雲。
チャプチャプという波の音に、遠くから聞こえてくる蝉の声。
そして。

「克己くん!」

先程より近い所から聞こえる、彼女の声。
克己は姿勢を変えその姿を探すと、崖の右側の洞窟のような場所の入口に彼女は立っていた。
克己はスイスイと泳いで彼女のいる場所へと近づく。
洞窟の入口近くにはプールにある階段付きの手すりが設置されていて、どうやら皆ここから上がっているらしい。

「水が冷たくて気持ちいいね」

随分と心配してくれたのだろう、彼女は克己のその言葉に強ばった表情を崩しふにゃりと笑った。
その後彼女から、あの場所は中学生達が飛び込んでいる場所で、小学二年生の克己が飛び込むとは、彼らは思っていなかったらしい。
無論、彼らもあそこから飛び込んだことは無いのだそうだ。
因みに、小学生などは漁港の近くにある飛び込みポイントで遊ぶのだそうだ。
家に帰ってずぶ濡れの克己を見た母親は、驚いた顔をしただけで怒りはしなかった。
ただ一言「今度はちゃんと水着で泳ぎなさいよ」と言われただけだった。

「それで、楽しかった?」
「うん、凄い楽しかった!」

いつもどこか作ったような笑顔だった息子が、年相応の子供の弾けるような笑顔を見せて、克己の母親は連れてきて良かったと、その日の夜、自分の母親にポツリと呟いたのだった。


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(´-ι_-`) 夏の海はステキだね

9/9/2024, 3:19:13 AM