あお

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 きっと壊れてしまったのだろう。俺は涙が流せなくなってしまった。
 飼っていた魚がこの世から去ったときも、丁寧に育てていた花が枯れたときも、俺の目から涙がこぼれることはなかった。
 失ってしまったと理解したその瞬間、感情が停止したように心から色が消える。そのときの状況や他者からかけられた言葉は、ちゃんと理解できるのに。ただ、なにを感じればよいのか、それだけがわからなかった。
 彼女に別れを告げられたその日も、俺はただ了承するだけだった。惜しむわけでもなく。引き留めたりもせず。ここで自分の思いをぶちまけても、彼女の決意が変わるわけでもなし。本当に愛しているのなら、相手の意思を尊重するべきだと、自分に言い聞かせた。別れに対してなにも感じていない、それを認めたくなかったから。
 別れたはずの彼女は、いつも傍にいた。親友を挟んで隣に立つその神経を疑う。
 俺が好意を抱いた相手や恋仲になった相手は、早い段階で親友に奪われてきた。手の早い親友に呆れているけれど、たぶん、表情には出ていない。元から感情の色は薄い方だから。略奪の復讐に動かす心も持ち合わせていない。
 度々「僕を恨んだりする?」と訊ねてくる親友に、なんと答えるのが正解なんだろう。「変な虫がつくより安心」と、定型文を用意した。だが、本当は、どう感じているのだろう? 自分で自分がわからない。
 親友と幼馴染みが交際を始めたと聞いて、胸の奥がチリチリと熱くなった。高い熱を持ったこの感情は、一体なんなのだろう? わからないまま、数年のときを過ごした。
 親友と幼馴染みの間に娘が生まれた。天使のように愛くるしい。目に入れても痛くないとは、まさにこのことだ。「パパとママのお友達だよ」と、挨拶をしたら、笑ってくれた。
 嬉しいことのはずなのに、心に影がさすのも感じていて。やっぱり俺は、壊れているのかもしれない。
 娘が生まれて数年が経った頃、親友夫婦の関係は冷めきっていた。幼馴染みは母親としての責務を投げ出し、町をフラフラと彷徨い始めた。帰ってくる方が稀。親友は仕事にかまけて、娘をほとんど放置している。娘が自ら父と母の話をすることはなかった。
 親友が仕事に出ている間、娘の面倒を任されていた俺は、何故か気持ちが高揚していた。壊れかけた親友の家庭を見て、喜びを感じていたのだ。そのとき、ふと思った。本当は恨んでいたのではないか、と。その可能性に気づいただけで、本心はまだ謎に包まれている。

 積み木遊びをしていた。娘の手によって高く高く積まれていく。無性に腹が立った。俺は近場にあったトラックの玩具を手に取り、「ぶーん」と言いながら動かした。目的地に向かって走るトラックは、躊躇なくそこに突っ込んだ。ガシャンと音を立てて崩れた積み木。
 泣くかと思った娘は、笑っていた。ああ、そうか。この子は俺の背中を見て育っている。泣くわけがない。崩れた積み木になにかを重ねて見て、壊れることを願っているのだ。
「崩れちゃったねー」
 娘はそう言いながら、積み木を綺麗に片付ける。親友と幼馴染みはそんな風に片付けない。やはり、俺に似ている。
「崩れた方がいいものもある」
 例えば、親友夫婦の関係とか。
 親友が求めた『家族』は、今、ちゃんと手に入れられているのだろうか?
 誰よりもあたたかい家庭に憧れを抱いた親友の思いを、幼馴染みも知っていたはずだ。でも、壊してしまった。幼馴染みは無限の愛を求めているから。与えるより受け取りたい女だ。
「なにを崩したいの?」
 真ん丸で漆黒の瞳が俺を捉えた。まるで、全て見えていると言われているような、刺すような視線。光の反射のせいか、瞳孔が真っ白に見える。とても不思議で、少しだけ怖い目。
「なんだと思う?」
 答えを持たないから、逆に聞いてみる。俺にだけ見えていないものが、娘には見えているかもしれない。
「お父さんとお母さん」
「どうしてそう思うの?」
「おじさんが寂しそうだから」
 否定はできない。
 二人を見ていると、胸に怒りの熱を帯びる。そこから離れるだけで解決するのに、目が離せないでいた。親友がはじめて俺から奪わなかった人、それが幼馴染み。自分の意思で決めた相手。それが寂しかったのかも。常に親友の一番でありたかった。俺が家族になってあげたかった。
 自分の感情に気づいた今、目からたくさんの涙がこぼれてくる。ボロボロと。
 きつめの詮をしていただけで、壊れているわけではなかった。

3/30/2025, 5:37:37 AM